貧困格差から産まれるもの
いまだ日本の社会は貧困による格差について深刻な受け止めがない。貧困ほど社会をダメにするものはない。自分の周りにはそんな人は見当たらないというような人も、いまだに多くいる。社会が分断され、自分の周囲の人の本当の暮らしぶりというものが見えていない。見えないからないと思うのは洞察力の欠如である。貧困というものは誰しも隠したいものだ。小学校に通う子供がいれば、何とか子供だけはみんなと同じにしてあげたいと考える。同じような靴を履かせたい。同じように給食を食べさせたいと考える。ところがその無理が一定の限度を超えた時に、外からも分かるようになる。格差の実態を表す数値は国から出ているので確認してもらえばわかる。先進国の中では最悪という状態になっている。一方に富裕層が形成され始めているという階層社会の出現。富の偏在が階層の固定化に繋がり、階級社会がまた始まる。
格差の深刻なところは格差が固定されるというところにある。これからの社会ではいったん貧困に陥ると抜け出ることはよほど難しくなる。子供の学力と親の収入は正比例している。文部省から出された統計結果である。富裕層の子供は学力が高まる傾向にある。貧困層の子供は学力が低下している。学力不足で高等教育を受けられないのは、自己責任だともいえない状態が生まれている。50年前私が大学に行く時代は、親の世話にならないでも大学に行くことが可能だった。意地を張って自力で大学に行った。そういう人は沢山いた。働きながら大学に通うことが可能であった。何故だろうかと思う。たぶん行政の補助があったというより、社会の中に苦学生を支えるという空気があった。アルバイトに行っても、出稼ぎのおじさんにずいぶん助けられた。そのひとだって大変であろうに、学生さんだからという事で補ってくれていた。農閑期だから来ているんじゃないと、家には農地などないと言っていたおじさん。今思い出すと感謝の思いで涙を禁じ得ない。
このまま経済戦争の時代を進めば、能力差別の社会が近づく。この能力差別は3%の人だけを必要とする社会が想像される。特殊な能力の人だけが必要とされる社会。ほとんどの人がその他大勢になる社会である。経済戦争に勝利するためにはそこまでの精鋭主義になる。普通の人が差別される時代を迎える。普通の人の競争からの離脱。97%の普通の人が経済戦争から降りる。降りるほかないし、その方がマシな選択になる。執着心を抜け出ること。競争ではない自己新の世界観の確立。自分の日々の充実して生きる。本気で生きることの面白さを知る。私はこれから絵を描く自分というものを生きようと考えている。その絵が人と較べてどれほどの価値があるかなど考えない。自分としてどこまで進めるかである。日々自己否定して進んでいけるかである。他者と較べれることで、上手いとか、下手とかという判断を下す。この世界を抜け出して、自分というものにどれほど掘り下げられるか。自分というものを絵を描くことでどこまで研ぎ澄ますことができるかである。
自給的に生きるという事の価値。社会への貢献度は低いかもしれないが、できる限り人に迷惑をかけない生き方。自分という人間を磨いて行けば、100坪の面積で一日1時間の耕作で食べ物は確保できる。次の社会ではここからそのひとの生命が始まるのだと思う。自由に自分というものに向かい合う事が出来る重要性。その無所有の覚悟が出来れば、貧困というものから離脱できる。幸いなことに日本の地方は消滅する。中山間地は神奈川県であっても過疎化が極端に進む。その消滅した以前は人間らしい暮らしがあった場所に、誰もが行くことができることになる。アベ政権や、トランプ主義をみていると社会に期待することによって消耗してしまう。社会を相手にしないで自分の生き方で行くほかない。これは間違っているとは思う。間違っているとしても、一度だけの自分の生命である。生命を十分に生かすためには、その方がいいと思うようになった。