教育は何のために行われているのか。
自覚のないままに経済戦争中の日本では、教育は経済の勝者になるために行われている。それだけに目標を特化しようとしているのかと思える。小学校で英語が正課になる。競争に勝つための道徳教育が正課になる。日本が経済戦争に勝つための人材作りという事になる。教育基本法で示された教育の目的は「人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成」と示されている。教育基本法に基づいた教育を行う義務が国にはある。全く平和で民主的な国家のことはどこに行ったのだろうか。明治日本帝国に役立つ人間を育てることが教育勅語であったように、経済国家日本に役立つ人間を育てることが、教育の直接的な目的になっている。教育基本法の趣旨を無視して、教育の改編が進んでいる。教育は経済主義に着々と入り始めている。教育の視点からこのことを正面から考えなければならない。
「教育な何のために行われるか」をそれぞれに問わなければならない。人間を人間になるように育てるために教育があると私は思っている。人間とは自分の頭で、自分の幸せな生き方を探せる存在である。特に初等教育においては、日本人の目指す方向性を伝えなければならない。日本人が日本で暮らしてゆくためには、社会というものの合意が必要である。どのような文化を持つ国であるか。何を大切にする国なのか。どのような歴史を持つ国であるか。どんな方角を目指してゆくべきなのか。このようなことを考えることのできる基本となる要件を教育しなければならない。憲法に基づく教育である。国語力が最も重要になる。一時間でも多く国語力を磨く必要がある。日本人とは日本語を読み書きする民族である。小学生の時は良い本を大量に読むことが大切である。読書の楽しさを育てる教育が大切だと思う。本を読んでゆくと、自分の中の世界が広がる。小学生の時に良い本に出合う事が出来れば、生きる生涯の宝になる。
次に行うべきは身体づくりの時間だ。身体の動かし方を子供の間に身に着ける必要がある。体育をもう少し広げて考える必要がある。よりよく生きるための身体の動かし方である。作業のできる身体づくりである。作業の授業が必要である。生きてゆく基本となる作業を身に付ける。身体と頭の連動できる身体。図工の時間や農作業の時間を総合的に組みなおす。人間が生きるために基本となる作務の時間である。掃除のやり方なども授業として取り入れる。暮らしの中での体の動かし方が、身に着く授業を行う。体力がないという事では、身体を上手に動かせないという事では、やりたいことが十分にはできない。初等教育では体つくりの基本が大切になる。暮らしが変わってきているため家での子供の生活だけでは、体の動かし方の学習が不足する。家で畑の手伝いをしている小学生はまずいないのではないだろうか。食事を自分で作れるというようなことも、初等教育である。人間は身体を動かし食糧生産をして、その食べ物を食べて生きるという事を身に着ける必要がある。
道徳教育というような枠組みで授業を行う事は無意味である。多くの本を読み、身体を十分に動かす。そうしたことを通して、社会道徳というものを身に着けてゆくはずだ。作業の時間にはみんなの田んぼを行うと良い。田んぼを上手くやるためには、すべてに対する配慮が必要になる。自分だけがでは上手く行かない。力のある人も、力のない人も、能力の高い人も低い人も、それぞれの役割を担う事で協力して作業を行う事が、全体では一番うまく行くという事が体感できる。田んぼを通して社会というものがどのようにできているのかを伝えることができる。思いやりとか、おもてなしとか、もったいない。こうした日本人の徳性を自然と知ることができる。道徳の授業は観念的なものでは効果的ではない。みんなで掃除をするというような作務を通して、身に着けてゆくもののはずだ。