石垣の暮らしにたどり着くまで
今日は69歳の誕生日である。おおよそ後1年で石垣島中心の暮らしになるのだろう。38歳の時にいわゆる画家になることを諦める。天才ではないという事が分かったからだ。このままでは絵は下り坂になると考えた。生き方を変えようと自給生活に入る。40~66歳まで養鶏業を行い、やめた。70歳までは田んぼをやる。70歳になったら石垣に引っ越して絵を描く暮らしに入る。決めすぎな生き方なのかもしれないが、このようにおおよその目標を定めてやってきた。少々のブレはあるが、なんとなくこんな具合に進んだ。と言っても来年は最後の田んぼはやるつもりでいる。という事は田んぼが終わる来年の10月末までは小田原暮らしである。段々その時期が近づくと、少しづつ自分にも未来がはっきりとしてきた。今は養鶏業も自然養鶏というものを、限界まで追求した気持ちが持てる。幸運で、周りの人たちに助けられたから可能だったことにちがいない。何時もダメかなと思うと、助けてくれる人が現れてくれた。お陰様で、少々変わり者の発達障害気味の私でも納得行くだけ、やりたいことをやらせていただくことができた。
世間は世知辛いようだが、親切な心が満ち溢れているものだと今更ながらに感謝の気持ちになる。そうでなければ、到底養鶏業は出来なかった。本当に助けられたことばかりだ。畜産試験場の技官の方々ありがとうございました。農文協の編集の方々ありがとうございました。日本鶏の保存会の方々ありがとうございました。自然卵養鶏会の皆様ありがとうございました。お世話にならなければ、何もできなかったことは確かだ。地主さんをはじめ地域の方々の、支えがなければ養鶏を始めることもできなかった。恩返しも十分にできていないまま、養鶏をやめることになった。これ以上続ければ、何か問題を起こしかねないという不安が発生した。66歳の時様々な衰えを感じた。あの時無事止めることができたことは、やはり良い選択であった。考えてみれば一番支えてくれた方々は、卵を買ってくれたお客さんだ。そうだ、忘れてはいけない。最初に卵を売ってくれて支えてくれたのは、代々木上原の兄だ。私より若かったのに、早く死んでしまった。
今は自給の田んぼについても、出来得る限りのことがやったという気持ちが持てる。自給生活の中、この田んぼと養鶏の二つのことがやらせてもらい得たのは、幸せなことだとおもう。田んぼについては30年近くやったことになる。最初の5年は全く他人とかかわらない山の中の自給の田んぼだった。自給の田んぼが5年で何とか出来るようになって、みんなでやる田んぼに進んだ。ずーと一人でやっていられないのが、自分の性分なのだと思う。あしがら平野一体で、10数か所だろう。仲間が集まっては様々に田んぼをやってきた。そして今、久野欠ノ上で4反の田んぼをやっている。16家族の仲間がいる。家庭イネ作りの田んぼとして、最高の技術水準の田んぼだと思う。農家の田んぼよりも収量が多い。有機農業の優れた技術をまとめたと思う。このやり方は農文協から出版する予定だ。読めば誰にでも農家以上の田んぼが出来る本のつもりだ。それでも田んぼは実際に一緒にやらなければわからないことだと思う。
来年がその最後の機会になる。もし家庭イネ作りに興味がある人がいれば、来年一年が最後の機会になる。名人の農業ではない。全く経験のない人が初めても可能な田んぼを追求してきた。手間はかかるが、最高の田んぼになっている。学んでみたい人は来年が最後の機会になる。会費1万円前後。お米120キロ差し上げます。月1回から2回の作業日となります。養鶏の方は終えてから、教えてもらいたいという人がいる。田んぼも終わる前ならすべての技術を伝えることができる。笹村までメールで申し込んでください。sasamura.ailand@nifty.comこの後石垣で絵を描くという事が、何処までのものになるかはわからない。ただ私以上に田んぼのことを理解していて、田んぼの絵を描いている人間はいないだろう。田んぼをやる人間の目で見ているたんぼの景色を描いてみたいものだ。