田んぼは伝統文化
一番上の田んぼが苗床になっている。
田んぼのイネ作りは日本古来の伝統文化である。日本人は田んぼで作られた民俗といえる。瑞穂の国といわれるゆえんである。3000年田んぼで主食を作り続ける中で、日本人というものが形成された。稲作が水と結びついていいて、水を制御することが国づくりにもなった。水は一軒の飲み水から始まり、地域の水管理。そして田んぼを潤す水の管理。水を管理することで日本という国は出来上がった。それは徳川時代には世界最大の都市江戸を作り上げることができた、日本独自の水土技術にまで高められている。お米は経済の基本で通貨の様なものでさえあった。給与の単位が一石どりの下働きから、1万石の大名である。田んぼが出来るという事は集落ができるという事だ。人間の暮らしが田んぼの水というもので繋がっていた。水を上手く分け合いながら、みんなで暮らす社会というものが形成された。争わず、分け合う文化。
5月3日 苗床のカエル
イネ作りの水の細やかな駆け引きから、日本人の物を見る目が養われた。日本的といわれる思いやりとか、おもてなしの文化が生まれた。一つの部落というものは、集落営農の形で田んぼをやっていたようなものなのだ。集落の一人一人が競争するというより、集落ごとの競争をしていたのかもしれない。それが藩という単位になり、一つの国が形成されていた。水というもので繋がっている暮らし。飲み水を汚さない暮らしが見直されているが、さらに大切にされていたことは、田んぼの水を守ることであった。田んぼから田んぼへの繋がってゆく水の世界が、人と人を切り離せないものとして育てた。それは日本の封建的世界として、負の要素も多分にある。個人が自由に生きるという事を妨げてしまう世界。お家の為とか、ご先祖様に申し訳が立たないとか。そうした意識が自分の自由な思いを飛躍させることを妨げてきた。
満水の田んぼと畔の花
集落共同体としての田んぼを日本人は50年前まではやっていた。私は山梨県の山村で生まれた。田んぼは個人の物ではあるが、水というものの関係で部落全体でやっていた側面もあった。田植えは上の方の田んぼから順番に植えていった。自分の家の田んぼの田植えの日は、むしろおもてなしの日だ。自分が田植えをするというより、ごちそうを作り、田植えで集落のみんなに働いてもらう事をねぎらう。お寺さんじゃ、役場に勤めに出ているのだから無理せんでもよいごいすよ。などと手伝いの人たちが中心に進めてくれていた。子供の私は張り切って田植えをしようと思っていたのに、田んぼに入ることはさせてもらえなかった。田植えはある種のお祭りであり、儀式のようなものだった。何故、みんなでやっていたかといえば、集落共同体だからである。一人でやれるとしても、みんなというものを大切にすべきだった。これが日本の文化の源であった。
このみんなは協働のみんなの社会だ。現代人の最も苦手にする、抜け出てきた過去の部落社会だ。いまさら、何故一人でやる田んぼにまでそんなことを持ち込むのかと不愉快になる人もいることだろう。これは私の願いのようなものだが、自分の為だけでは本当は楽しみというものは見えない。カラオケより、合唱の方が楽しいはずなのだ。カラオケで自慢の唄をみんなに聞かせて嬉しいというのは、少しいやらしくないだろうか。少々下手な人も、みんなで声を合わせて歌う。上手な人が、ハーモニーするように違う旋律を唄う。輪唱をする人もいる。こうして全体で一人ではできない音楽のより豊かな世界が生まれる。中にはほとんど声の出ない人もいる。それでも、その小さな声も全体を生かす。このみんなでやれば高まるという形が、日本人が失われてきた部分だと思っている。みんなの田んぼは一人一人の生き方の入り口だと思ってもらいたい。一人でで出来るようになったら、みんなともできる人間に成長すべきだ。3000年前から田んぼはそういう人間を育ててきた場所なのだ。