5Gで農業革命という危うさ
5Gというのは今の100倍の速さと量のデーター処理能力のことらしい。それで農業に革命がおこると書かれていた。5Gの方法はどのような仕組みなのか分からないが、情報の処理能力の格段の向上で農業がどう変わるというのだろう。
ドローン、小型センサー、ウェアラブル端末(スマートグラスなど)を駆使することによって、害虫駆除や異常確認といったこれまで多くの労力を必要としていた作業を機械が担うことになる。さらに気温、日照時間、病気などのデータを収集・分析し、勘や経験に頼らなくても最適な施策を容易に選択できるようになる。こうしたビッグデータを活用するには、ドローンに搭載したカメラや多数配置された小型センサーなどの様々な機器が、刻一刻と変動する状況を記録・測定。それらのデータが5Gによって瞬時にサーバーに集積される必要がある。集まったビッグデータは人工知能(AI)が過去の膨大な実績などをもとに分析し、人に的確なアドバイスを行う……。「不確定要素が多く、きつくてもうからない」農業が、「過去から先を見通し、効率よく稼げる」農業へと進化するのだ。ーーdocomoの広告
5G農業は質の悪いデマになってr仕舞うと想像する。農業では自然を超えることはあり得ないという感想を持っている。化石燃料の大型機械が登場した、工場農業も登場したが、農業の本質は少しも変わっていない。農業は自然の摂理に従う産業であり、自然の流れを度外視したような生産性革命は起こりえない。過去の歴史を見ても、生産性が倍になった事はあったが、それ以上のことはない。たとえ5G農業で倍の効率の農業が実現出来たとしても、それは確かに凄いことだがその程度が限度である。その経費は倍では済まない。こうした革命は化学肥料や、農薬の登場のように好ましくない結果を伴う事になるだろう。農業は人が自然の一部であるという場所に立ち戻り、人間らしい暮らしを模索する方角に進むべきだ。食糧生産工場としての農業はあり得るだろうが、あくまで一定の範囲にとどまる。畜産ではかなり工業的畜産に進んで、問題を起こし始めている。卵工場やもやし工場やキノコ工場では可能であるとしても、お米では無理だ。稲作でのモデルを考えてみれば、その限界は誰にも明瞭になるはずだ。他の工業製品と同列に農産物を発想することが間違いの始まりになる。
産業革命が及ぼした農業革命には3つあった。化学肥料の登場。農薬の出現。大型機械の導入であろう。こうした農業革命でも、他の分野に比べててみれば農業では生産性が様変わりすることはなかった。流通革命とか、情報革命は、確かに今起きていることだ。世界は変わったと言えるほどだ。しかし養鶏業で考えれば、どれほど機械的な工場養鶏が出来たとしても、鶏が生きものである以上、自然養鶏からの革命的飛躍は出来ない。工場養鶏の新たな問題点が、鳥インフルエンザのような形で現れている。稲作で言えば、江戸時代の循環農業でも、産業革命を経た今でも倍お米が取れるようになったわけではない。これが倍取れるようになったとしても、経費の増大から国際競争力はない状態である。農業を自動車産業と同列に考えてしまう所に発想力の欠如がある。アベ政権の主張する、国際競争力のある農業という主張も、ドコモの広告と発想がよく似ている。自然に従うという事ではなく、自然を自由に克服するという人間のおごりが背景に感じられる。
確かに屋内で作る工場農業にすれば、自然の枠を超えられたと見えるだろうが、そこにあるレタスはあくまでレタスという自然物を超えられない。お米や野菜と同じ栄養価のある合成物質を生産するというところまでゆくなら話は違う。このカプセルを飲んでおけば、食事が要らないというような、子供の頃の未来予測の様なばかばかしい話で終わりだ。日本が化学合成食料の生産国になることが、国際競争力のある農業ではないという事は当たり前すぎることだ。しかし、農業革命の発想にはそうしたあり得ない馬鹿馬鹿しさを捨てきれないところがある。農業は自然に従うものだ。それは人間が自然の一つであり、人間の幸せは自然の中にあるという事だ。全ての行いは人間の幸せの為にある。東洋3000年の循環農業を基盤とする思想だ。農業を行うという事が幸せに生きるというなのだ。絵を描くという人間の行為は本当に生きるという事に繋がっている。絵らしきものを機械で大量生産したところで、それは人間の幸せとは縁がない。絵らしきもので一儲けしたいに過ぎない。農業革命を考える前に、人間の幸せとは何かを考える必要がある。