紙が水彩画に変わるとき

   

石垣島で描いている。いろいろ確認しながら描いている。紙が絵に代わる瞬間というものを意識している。描きだしは画面の一部が絵になる。まだ描いていない部分は紙のままである。白い紙に線を引く、有る時それが絵に変わる。絵に変わると紙でも線でもない、絵画としての観念になる。ある瞬間に描かれた線が、造形的な意味の有するものに変わる。単なるものであるはずの、白い紙の上の線が、人間の思想を引き写す造形に変わる。この不思議の中に、絵が秘められている。時に白い紙は美しいという言葉を聞くことがある。無意味なシミで出来た線は美しいという事を聞くこともある。それはモノとしての美だ。モノには物の美しさがある。落ちている石一つでもよく見れば美がある。ではより美しい石を探し始めてみると、それはそれとしてなかなか厄介な選択になる。そして気に入った石を見つけて、それを美しいものとして飾ったとしても、それは芸術とは別の価値になる。確かに、美しい石を選んだという意思の中に、芸術は存在する。これは美しい石ですと指し示すことで、自分の美と観念を示すことができる。それは芸術的行為と言っていいのだろう。

芸術作品とは、作者の意思を反映したものという事になる。美しい景色を選択したことは、芸術的行為である。しかし、美しい景色は芸術作品ではなく、ものである。物だから価値が下がるという意味ではない。白い紙が工芸品としての美の創造物ではあり、紙は紙としてのの表現ではあるのだろう。しかし、その紙を作品表現の材料としたときには、その紙としての表現は、あってはならない物になり、工芸的美とは関係もない世界に突入する。その紙を選択したという意思によって、作者の表現に置き換えられたと言っても良いものになる。この時の紙はモノでは無い紙になる。この違いは明確にしなくてはならない。紙という工芸品の美に寄り掛かった形では、作者の表現というものとは程遠いいものになる。それは鉛筆の調子や色の美しさというものになると、なかなか一筋縄には考えきれない要素が出てくる。材料としての鉛筆であるのか、表現としての材料なのか。このことを考えてみたい。

美しかった紙が色を塗ることで、美しいものでなくなる。制作においてはダメになったのではなく、次元が素材に移行したという事なのだ。モノを美として見る工芸美の世界から、芸術創造に入ったという事になる。芸術においては美であるという事も、材料に過ぎない。汚いという事も同じく材料である。鉛筆の線が水彩絵画として入り込めばそれは充分に作品である。鉛筆線がものとして残れば、それは材料である。美しいものを表現したいとしている工芸作品において、下地が浮き出ているのであれば、まだ未完成であろう。工芸作品であれば、下地や手順があるのだろう。では書や水墨画において、下描きの鉛筆線がないのであろうか。下書を見せてしまえば、表現としての勢いや、幽玄を白けさせてしまうものだからだ。多分下描きの鉛筆線が生きた書もあるのだろう。水墨画もあるとは思う。描く作者の心を伝える者が作品だから、作者が下描きの線を必要としているという意思こそ、読み取る材料になる。

中川一政氏の書に、鉛筆の下書きがあった。それは表現として成立していた。モランディの水彩画に鉛筆線があるという人がいた。私は見たことがないのでわからないが、鉛筆の下書きの残る水彩画がないとは言えないだろう。もしあるとすればきっとそれは表現として必要な絵としての鉛筆線である。下書である線をあえて残す作品がないとは言えない。しかしその線はものから、絵に変わっていなければならない。水彩画に向う時に、鉛筆で下描きを始めるという事が、水彩らしい制作をないがしろにしてしまう可能性の高い行為なのだ。習慣的に鉛筆で始めてしまうという事が私には信じがたいことだ。十分に自分の制作を見つめれば、鉛筆線がある水彩画は鉛筆線のある水墨画や書と同じようなものだと気づくはずだ。

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