三軒茶屋小学校同窓会
1949年に生まれだから、1962年の3月に世田谷に区立三軒茶屋小学校を卒業したことになる。4年から6年の3年間の3組江藤学級である。その小学校の同窓会が先日三軒茶屋であった。15人ほど集まった。毎年10月の第2週の土曜日に開かれている。同窓会はよほどのことがない限り参加する。同窓会は昔に戻った気持ちの良い友達が集まるからだ。私は三軒茶屋で生まれたとも言っているが、実は山梨県の藤垈の向昌院で生まれたのが本当である。子供の内はその山寺と三軒茶屋とを行き来しながら育った。三軒茶屋小学校に通ったのだが、境川小学校に通ったこともある。山の中の向昌院での暮らしが好きだったという事もある。忙しすぎる暮らしで、子供どころではない状況があった。そこで小さい私に何かあっても困るので、祖父のお寺に預けられていた期間が長かったののだろう。兄は預けられることはなかった。たぶん家長制度の意識があった祖母が兄は手元に置いておきたかった。東京の家の事情という事もあった。
同時に多分そうだと思うのだが、精神的に問題のある子どもだから、祖父に預けられたという理由を今は考えている。祖父は僧侶であり向昌院で精神疾患の患者さんを預かる宿泊施設をしていた。お滝の森という清水があり、その霊水の滝に患者を打たせることが、江戸時代よりの治療法とされていたのだ。その宿泊施設が向昌院であった。だから精神疾患の患者の治療施設としての登録もある寺であった。祖父は早くに父を亡くし、寺に預けられた育った人であった。寺にはいつも病気の人とその家族が自炊で暮らしていた。その経験から孫の私を観察した祖父の意向で私を向昌院で預かることになった気がする。すこし危うい孫を預かることをあえて引き受けた気がする。小学校に行くまでは向昌院での暮らしが長かった。それですっかり山寺の暮らしに成れてしまった。三軒茶屋小学校に入学してからも、低学年の間は向昌院にいた記憶の方が鮮明である。4年生ごろからは、三軒茶屋に暮らし始めた。そのクラスが江藤学級である。
江藤先生という人は今思えばかなり変わった教師だった。鉄拳制裁当たり前の人だった。大学を出て間もない若い教師であった。三軒茶屋という地区が燃え残ったために、引揚者家族などが集中し少し荒れた空気があったと思う。江藤先生は実に積極的な人で、学芸会、演劇、炊飯遠足、成績順の着席、男女がひと月代わりに隣の席に座る人を指名する。野球のチームを2つ作り1軍と2軍とで競争させた。まあ野心的であったと言えばいえるのだが、今考えてみればあり得ないような露骨な競争主義の人だった。一度同窓会に来て、教師を辞めて投資家になったということで、バブルで成功して月々何百万円も収入があると、生徒に自慢話しをして驚かせた。それでも悪い教師だったとも思わない。教師の影響というのはどういうものなのだろうか。今では三軒茶屋に住んでいる人は、数人しかいない。三軒茶屋自体が様変わりしているから、当然のことだろう。まだ環状7号線はない。周辺には麦畑があった。あちこちから引き上げて来て、三軒茶屋に流れ着いたような人が多かった。我が家もそういう家族であった。
卒業をして、46年が経過した。68歳である。みんなが働いていた時代とは少しづつ変わってきた。弱音も言い合えるような関係になった。どちらかといえば女性の方が元気である。はつらつとしているので驚かされる。要するに生き方の問題なのだろう。こなくなった人、来れなくなった人。見つからない人。寂しい限りである。
有朋自遠方來。不亦樂乎。孔子の言葉である。訳してみれば。
今日は遠くからご苦労さん。
昔一緒に勉強したね。
久しぶりの話で時のたつのを忘れるね。
生きてきた道は違うけれど、こうやって合えば昔の顔だよ。
お互いひたすら暮らして、いろいろ学んだね。
会うだけでもその暮らしの気持ちが伝わよ。