教育勅語について
アベ内閣はついに教育勅語を教材に使う事を容認する閣議決定した。安倍晋三氏も稲田防衛大臣も教育勅語が好きなようだ。田防衛大臣は教育勅語の何がいけないのだと、文科省に抗議までしている。自民党憲法が制定された暁には、教育基本法を教育勅語的に変える方針に違いない。では教育勅語とはどういうものであろうか。明治時代に天皇の言葉という形で、明治政府が教育の方針を示したものである。脱亜入欧、富国強兵という日本帝国を作る教育目標である。天皇を中心とした帝国主義を支える小国民育成目標である。不思議なのは、安倍晋三氏は日本国を瑞穂の国、美しい日本と呼ぶにもかかわらず、何故瑞穂の国を否定した明治政府を日本と考えるのだろうか。これは多くの国家主義者の間違うところである。明治政府は欧米先進国に追いつくために、江戸時代の日本を完全否定した。廃仏毀釈を行い、伝統的日本絵画や仏像をぶち壊し、日本語の否定まで画策した。まるでタリバン政権のような側面を持つのが、明治日本帝国政府だ。現在の保守主義者が目指すところは、日本ではなく、明治の間違った日本帝国である。
教育勅語(原文と現代語訳、ぜひとも一度読んでみてもらいたい。)の現代語訳読めばわかるように、一般的道徳と皇室に対する国民の取るべき態度が書かれたものである。瑞穂の国の水土を司る天皇という意味では、皇室を否定はしない。むしろ、日本の来た道を尊重すべきものと考えている。だから余計に、日本帝国の皇帝としての天皇という明治政府のこじつけは到底容認できるものではない。教育勅語は時代錯誤の、とんでもない文章である。何故、安倍氏や稲田氏や日本会議の人たちがこの文章が好きなのか、おかしな裏があると思わざる得ない。日本会議というところでは、教育勅語が今もって尊重され、園児に暗唱をさせるような人まで現れる。教育勅語が国民に押し付けられた明治軍国主義日本をどう克服するかが、戦後の日本の方向であったはずだ。いつの間にか、明治日本帝国主義の復活の足音が迫っている。
教育勅語を評価する人には二通りある。昔は良かったという懐古趣味である。子供の頃暗唱した記憶があり、昔の子供たちの小国民的な生活を、今の道徳の乱れた日本よりは正しいものと考えている人。もう一つのタイプは、人間を型にはめ込み、自分に従わせたいと考えている人だ。日本人の乱れた暮らし方が、目に余るのであろう。規律ある、統率の取れた人間であるべきだとする人たちだ。日本社会の人間の矩がおかしくなっているために、それを正すことができるのは、子供時代からの型にはめる教育を大切とする。それは規律ある教育でなければならないと考えた時に、教育勅語を連想してしまうのであろう。道徳的目標や親孝行を持ち出して、教育勅語全てが正しいと考えてしまう愚かさなのだ。教育勅語に天皇を敬い従えという趣旨があれば、他にどれほど道徳的優良部分があるとしても、これからの日本のための教育の考え方として教育勅語すべてを持ち出してはならないものなのだ。それをあえて持ち出すのは、知性がないのか、分かっていながら裏の意図でやっているのかどちらかである。
日本人が本当に明治の社会の実相を知ったうえで、良しとするのであれば、アベ政権を支持するのも致し方がない。私も日本を諦めるが、おおくの人が江戸時代が民草を弾圧した時代で、明治が文明開化の時代と、騙されている気がしてならない。アベ政権が軍国主義までは考えているはずはないと思って、安倍政権支持をしているとすれば、早く気付かなければ大変なことになる。帝国主義政府になってしまってからでは、取り返しがつかないことなのだ。こんなことは想像もしたくないが、今トボケて騙されたようなふりをしている、安倍晋三記念小学校が本当の話になる可能性はあるのだ。自分の子供が教育勅語を暗唱させられ、徴兵制度が復活し、軍人勅諭が暗唱させられるかもしれないのだ。アベ政権以前では、そんな馬鹿なと思っていたら、国会で稲田氏は教育勅語の精神は正しいとまで、答弁することになっている。ひたひたと迫っている。この事態に対して、自民党内部から、少しも反論が出ない。アベ政権支持の世論も下がらない。日本が踏みとどまるためにはしっかりした投票行動をするしかない。