舟原溜池の企画案

   

舟原には元治という江戸時代初期に作られた溜池がある。神奈川県では溜池というものは無くなったと聞いている。確かなことはあしがら平野には他にはいわゆる田んぼの為の溜池は一つもなくなっている。水車はとうの昔に無くなった。このままでは足柄平野の稲作の江戸時代の農業遺構は、失われてしまう。耕作放棄地が増え、農業自体が失われてゆく時代である。溜池を農業遺構として残す意義は、小田原地域の江戸時代の暮らしを想像するわずかな痕跡となるはずだ。この地域の農民の暮らし、つまり大半の人々の暮らしがどのようなものであったかを忘れ去ることは、小田原の未来の暮らしを考えるうえで、歴史的な貴重な資料を失うという事である。武士や支配階級の歴史遺構は尊重されるが、多数を占めた常民の暮らしは軽視される時代である。すでに、多くの溜池が無くなってしまった今、唯一偶然にも残った溜池を農業遺構として保存する意義は小さくないと考える。

小田原の未来の暮らしがどんな暮らしであるか。農業は今のまま残ることは考えにくいことだろう。日本人の暮らしをたどり、再生させようとするとき、もう一度地域の農業は見直されるはずだ。新鮮な角度から新しい農業の形が見つけられることだろう。その時に、考えの基礎になるものは江戸時代の農業である。その資料として、溜池や農業用水路は、水にまつわる地域の暮らしの形成を考えるうえで、重要な要素である。水は暮らしの原点である。水を媒介として、地域の暮らしの関係が形成されたと考えられる。水をどのように確保し、水をどう分かち合うかが、地域の形成の基本である。ふるくから舟原では横井戸の暮らしであったようだ。北側の山に穴を掘り湧いてくる水で生活をしていた。時代によってその湧き出る水位は変化した。その為に集落も上に移動したり、下に移動したりしたと言われている。、又隣の諏訪の原や、欠ノ上の集落で水を遠くから引いてこなければ暮らせなかったために、部落が出来たのは遅れたようだ。江戸時代初期には溜池が出来たように、田んぼの開発が一気に進み、今もこの地域に住んでいるかけの先祖がいくつかの部落を形成したようだ。

舟原の溜池を残すことは、そうした先祖たちの暮らしに思いをはせることになる。溜池のある場所は、上流には人家はない。明星岳の谷筋からの絞り水を集めて、溜池を作った。かつては3つあったという。今も絞り水が小さな川となって通年流れている。2000年頃までは、人が泳げるほどの深さに保たれていた。鬱蒼とした雑木に覆われて、薄暗い場所になっていた。しかし、水鳥が多数飛来し、オシドリも見られた。そのころから農業用水としての機能を失い、草刈り程度の維持となり、水位も30センチくらいまでに下げられた。欠ノ上の水利権を持っていた人たちも、田んぼを止めることになり、溜池の保全自体が負担になってきていた。そのころから徐々に美しい久野里地里山協議会が溜池の草刈り管理に関係するようになる。舟原の自治会でも呼びかけがあり草刈り管理を行った。しかし、水を流すこともないために、また、海堀を行う事もなくなったため、年々土砂に埋まるところとなった。

現状として行わなくてはならないことは 

1、溜池まで下りる道を作ること。

2、土砂を均し浅く広く水がたまるようにすること。

3、周辺の草刈り管理をしやすいように整えること。

4、小田原市の管理地の確定。農業遺構である表示。

以上を行うためには、継続的な管理体制を作らなくてはならない。現状としては美しい久野里地里山協議会が保全管理することが、唯一可能性のあることではないかと思う割れる。その前提としては、この溜池が農業遺構として価値あるものであると認定され、今後とも保全してゆくという事が明確にならなくてはならない。

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