フィリピンのドゥテルテ大統領
フィリピンのドゥテルテ大統領が来日した。暴言大統領が暴言を吐かずに帰られて良かった。ドゥテルテ氏はどこか日本の大統領であるアベマリオ氏と似ている。ドゥテルテ氏はアメリカに暴言を吐き、中国と接近して経済援助を引き出す。アベマリオ氏はロシアに対して欧米からの経済制裁の中、ぬけぬけと経済援助を打ち出して、北方領土の返還を試みている。日本はフィリピン・ダバオへの農業開発支援に約50億円の円借款を供与する方針も打ち出した。結果どういう事が起こるのか、何もないのか。アメリカの大統領はトランプ氏だ。末世の世の中では、とんでもない人が選挙でえらばれことになるようだ。政治家はすべからく頭の黒い猫という事のようだ。石原慎太郎が日本主義の堕落を嘆いているが、いったい日本とは何なのか。日本の伝統と考えるものは一体どこから生まれたものなのか。日本人の資質が醸成されたその根源を探るべきだ。
世界はグローバリズムの競争の嵐に翻弄され、多くの国家が他人を慮る余裕を失っている。他国を出し抜くことだけが生き残る道だと世界中が喚きたてている。そういう資本主義の末期的状況に世界は立ち至ったと考えなければならない。独裁的で独善的な政治家が選挙で選ばれる状況である。安倍晋三氏が最悪だと思わない方が良い。日本にもドゥテルテ氏が登場するはずだ。鶴保氏などそれを狙っている気がする。悪い世の中になったものだ。日本の伝統を壊したのは石原慎太郎的なものだ。力で相手をねじ伏せれば勝ちだというような考え方が、そもそもの日本主義からは全く程遠いい、列強の帝国主義的思想の反映なのだ。日本主義という時振り返るのは明治維新以降の日本のことだ。そして都合よく戦国期の武将などを思い返す。そもそもの日本を形成してきたのは、庶民なのだ。常民なのだ。ごく普通の人の生活の水準の高さが日本だったのだ。
西表の今は消えた仲良田集落で産まれた唄が、世界に誇れるものとしてある。この文化力を日本だと考えなければならない。その日本の文化が世界の希望だと思う。人を出し抜くとか、一番になるとかではなく、自らの内なる世界の充実こそ安寧な暮らしを送れるという日本人である。その多くのものは稲作から生まれた。戦国の武将がバカな戦に躍起になっていたときも、大半の日本人はごく当たり前の日常として、普通に田んぼで耕作をしていたのだ。 そうしたごく当たり前の暮らしの深さこそ、日本の文化の特徴である。それは世界中にある人間のすばらしさの一つなのだろう。人間は原子力という文明を発見し、エネルギー革命がおこると考えたが、それによって滅びの道を歩み始めている。ものによる充実は抑制できる倫理がなければ、崩壊につながる。北朝鮮の原爆が飛来して日本はいつ終わるかもしれない危機にある。競争の結末とはそういうものだ。
相手を罵倒することを止めなければならない。相手を土人扱いするものが人気を博するような日本から降りるしかない。それでも日本は滅びに向って競争を続けるのだろう。現実はそれほど悲惨である。民進党はカジノ法案の推進議員連盟が集会をしたという。こんな野党に期待ができるわけがない。こういう自民党に入りたいが、入れてもらえなかった人たちが野党を作るという最悪の政治状況。経済政策が賭博奨励では、まさに地獄の釜の蓋が開いた。儲かれば何でもありの世の中である。たぶん多くの日本人が賭博が好きである。それを無くせというのではない。政治はそれをコントロールしてゆく役割である。悪所は悪所であるから成り立つのだ。政府と不健全野党でこぞって声高に奨励するようでは、世も末だ。心有る少数者は、この末の世をどう生きるかを考えるほかない。
本当の日本の姿は、帝国主義を目指した明治時代ではなく、それ以前の日本人の当たり前の暮らしの中に在る。石原氏等は、明治日本を日本であると誤解しているに過ぎない。安倍氏が昔間違って書いて、今は忘れている瑞穂の国が日本の国柄である。一人の人間が生きるためには1反の土地があれば十分である。家族であれば3反の百姓である。日本の農地は日に日に放棄されている。ここに有難く生きることだ。つまらぬ競争に心を煩わされないことだ。日本の国柄は競争では無く共存である。江戸時代の部落は循環型社会の良い事例である。ここ戻れば何とかなる。そのうち世界の庶民は競争のむなしさ、苦しさ、困難に気づくはずだ。その時に江戸時代の暮らしが大切になる。100年は待たなければならないだろう。その時参考になることもあるかと自給の暮らしを書き残す。