篠窪の柿
写真では柿があるようにも見えない。
新しいアトリエ車で篠窪に描きに行っている。柿が滝のように実っている。これほど見事な柿の実りは初めてみた。なぜ、これほどに実ったのだろう。柿の重さで木がしだれている。一面の柿で空に隙間がないほどの実りだ。色で塗るとすれば、点でも線でもなく面だ。余りのすざましさに柿の怒りを感じるほどである。柿が燃えたぎっている。舟原では柿は不作である。外れ年という人がいた。実っている柿の木は数本しかない。それほど環境の違わない篠窪であれほど実っているのが自然の不思議である。科学的解析はいつかできるのだろう。この不思議が自然の無限の大きさではないだろうか。自然は常に想像を絶する。その想像を絶する不思議な姿を、感じる世界そのままに描けないかと思う。時間があれば、篠窪に通っている。描ける訳もないし、まるで歯が立たない。そう思いながら作為を捨てて写している。
多分科学が進み、自然のすべてが解明される日は来るのであろうが、この自然の総合が柿の実りを爆発させることを再現するのは極めて難しいことであろう。柿の木は実りの不思議を目の前で見せてくれている。自然は草一本の姿も不思議の総合なのであろう。自然は常に類まれであり、稀有な一瞬の連なりだ。このありきたりで驚異的な自然。それとのかかわりの中で生きることが、里地里山の暮らし。人間が自然から離れて生きるようになり、生きることの幸せ感を見失ったのではなかろうか。どれほどの5つ星レストランで豪華な食事をしようとも、自分で育てたお米の一膳に勝るものはないという確信。自分も自然の中で許されているという安心立命。私の絵を描くという意味はこの不思議な現実を絵としてなら描けるのではないかという思いである。絵以外ではこの事実を事実として記録のしようがない。例えば劉生の切通の風景は、そうある自然をとらえていると思っている。他の方法では記録しようのない世界である。
自給自足で生きて、里地里山の自然のありようを何としても記録してみたい。私個人の生命の衰えは刻々迫っている。そういう焦りがある。人の命の短さでは、自然の無限の複雑さには太刀打ちができない。自然の姿はいくらか見えだしたように思う。これは幻覚なのだろうか。以前より、柿の実りを見た時の見え方が違ってきたようにも思える。自分の絵と接点があるように見えるようになった。にもかかわらずそれをとらえる体力とか、気力とかが、危うくなってきているように思う。生きてきて実に残念な思いだ。せめてもという事が焦りであり、限界であり、浅ましさなのだろうか。だからと言ってこれだけは諦めもつかない。それでも田んぼができる間は、挑戦だけは大丈夫だと思っている。あと3回である。あと3年である。
篠窪が特に面白いという訳でもないはずなのだが、篠窪はどうぞ絵に描いてくださいというようにある。展開した斜面が、屏風のようにある。もう丸で絵として出来上がっている。だから絵にするなどという意識は全く無用のことになる。ただ写せばいいのだ。要らないものをとるとか、何かを画面の都合で加えるとか、作為は一切要らない。出来上がっている自然の絵を移すだけである。岡本太郎が最後の芸術は指で指し示せばいいだけだ。と言っていたが、まさに篠窪で指させばそれで終わりである。柿がある一瞬に、世界の真実を見せてやろうとみのりを輝かせたように、篠窪という場所は、そいう自然と人間のかかわりの姿を見事に調和させているのだ。もし、これを読んで嘘だと思う人は、篠窪を訪ねてみればいい。小田急線の渋沢から歩けば45分くらいの場所である。屏風の景色だから、時々刻々変わる。弁当持ちで歩き回れば、一日中楽しめるだろう。