私絵画を進める方法
自給農業を続けて来て、身に染みたことはやってみなければわからないという事だ。養鶏の時もそうだった。自然養鶏は前例がそもそも少ないので、さしたる方法論が提示もされていない。だから、本が2冊しかなかった。そこで自分で方法を探す以外になかった。自給の田んぼをはじめたがやはり、本はなかった。現代農業に書いてあることのほとんどがその通りにはならないという驚きが続いた。直播、不耕起、冬季湛水、自然農、いろいろ書かれてはいたが、やってみてその通りになったことがなかった。何十回も失敗を繰り返した。そして、何だ、田んぼはやってみなければわからない。という当たり前のことになった。水が違う、土が違う、太陽が違う、気温が違う、品種も違う、耕し方も違えば、機械も違う。この複雑な組み合わせの中で参考になることは少ない。ところが事例の紹介はまるで誰でもこの通りやれば、この通りなるがごとくの独断に満ちている。農家の親父の実践とはそういうものだろう。
特に、米ヌカ除草はひどかった。ずいぶんやってみたが、上手く行く確率の方が低かった。半分しか上手く行かないのでは農法というにはひど過ぎないか。そこで私は抑草法という言葉にまず変えるべきだと主張した。ソバカス抑草法。化学農薬を使わない草対策はあくまで抑草法と考えなければならない。雑草対策はしのぎである。雑草をなくすような農法はどこか欠点があり、永続性がない。そういうことは科学的除草剤に任せておけばいい。大規模の商業的農業は収奪的にならざる得ない。土地などダメにしても、新たなところでやればその方が利益が出るというのが、植民地的大農園である。人間が負けない範囲でいい。稲も草に負けない範囲でいい。やってみなければわからない体験。そして、絵というものも実に体験的なものだと思うようになった。
農業の体験から書いたのだが、実は絵のことを考えようとしている。絵も前例のない世界だ。絵は全くそれぞれの個人のものだ。ところが、世間には良い絵という基準がある。このことは何なのかと思う。基準に騙される。100メートル10秒を切る人がすごいということは分かるが、高校の陸上部員の私にとっては12秒を切るという事が問題だった。その時にはボルトと較べない。較べない私には12秒の壁があった。高校生の中にも10秒台の人がいるが、馬鹿馬鹿しいとも思わなかった。良い絵というものは無いと思った方が良い。商品的価値というものが、現代社会の価値基準である。売れる作品が10秒を切る作品である。ところが、自分としては12秒を切ろうとして絵を描いて居る。12秒切ったところで商品世界では馬鹿にされるようなことだ。馬鹿にされるのは世間的な価値基準があるように考えられているからだ。私絵画においては、比較というものがない。比較するのは過去の自分とである。それは未来の自分の方角である。
自給の田んぼでは、自分が食べたいお米を作るだけだ。自分の為だけの田んぼだ。何も、一等米とか、食味ランキングとかは関係がない。草があるもよし、草がないもよし。あくまで自分の納得の米作りである。経済性とは逆行するが、自分が食べたいお米を作りたい一心である。その自分が良しとするお米を人の目で判断して、研究しようというのが、水彩人展である。絵を描くというのは、私を掘り下げているのだが、一人では見失う。自分の米作りがやはり他と交流して研究しなければ向上しないように、自分の絵を描くという事も他者との交流が必要である。仲間の絵と並べてみて初めて気づくことが多いいものだ。絵の展覧会はそういう場であってもらいたい。品評会ではない。コンクールではない。水彩人展では初めから終わりまで絵のことばかりである。素晴らしい絵画漬けの2週間だった。いよいよ今日18回目の水彩人展が終わる。