絵を言葉化する。
水彩人展は明日までである。水彩人展を18回やってきたという事は、その倍の36回は間違いなく展覧会を開催したという事になる。同時に、研究会や、写生会、写生の旅行と、水彩人でやらしてもらえることは何でやった。大半にかかわってきたことになる。やりたいからやってきたことだ。いや嫌やったことは何一つない。事務所もその昔にも3年やったし、今回も2年やらしてもらった。負担だと思ったことは一度もない。すべては良い絵を描きたいからだけのことだ。水彩人がなければ、自分の絵に近づくことも出来なかったかと思う。それでなければ自分の満足がなかった。私の精一杯と言っても失敗だらけで迷惑ばかりである。自分としては、やるだけのことはやり、ここまで来たという充実感はある。来年の1月の総会で事務所は終わりになるので、その後は、水彩人のかかわりをすこし変えようと考えている。
個人的に絵を言葉にする会をしたいと思っている。絵はただ描けば、それはそれでいいことは確かだ。生涯人に見せることもない人も居るだろう。しかし、それでは私絵画といえども、深化することがないと考えている。修行や研究は一人でするのであるが、その結果の検証を公開する必要がある。絵が良くなるという事は、描いて居て面白くなるという事だ。絵が自分の中の深いところと連動してくる感じがしてくると、描いていることが面白くて仕方がなくなる。自分の絵の新たな発見に、絵を描く喜びの深さが増す。その為の方法として、絵を言葉化するという事があると考えている。黙って描いて居いていたい人も居るだろう。良い発見をしたら黙っていたいという人も居る。人に教えてやるのはもったいないという人も居る。それぞれの考えだと思う。ただ私の場合で言えば、一人でやっていることなど知れていると思っている。自分の絵でやっていることを様々な角度から、考えてみるには、他の人の目が必要だと考えている。
展覧会をするのは私には絵の勉強だけの為だ。別段絵を描いて名を上げようとか、収入を得ようというのは、とうの昔に止めた。絵の為の良い研究をするには、絵を言葉化するという事ではないかと考え始めた。これも勝手な思い込みかもしれない。しかし、個展を行うのも、自分の絵の研究である。しかし、現代の個展は研究の為の物としては、機能していない。個展会場で「おめでとうございます。」という嫌な言葉を聞くようになった。個展は結婚式や成人式ではないのだ。戦いの場のはずだ。販売目的の個展に紛れ込んだ時の嫌な感じはない。商売で何が悪いのかという意見もあるのだが、芸術家の演出をした、商売人は見たくない。世間にあるそういう風潮が嫌で個展は止めた。そして個展を見に行くことからも遠ざかった。資本主義社会での個展の意味が変質し、作品の発表が販売に変わった。
私絵画では絵を描くことは自分の人間を深化させる一手段だ。そこで考えたことは絵を前にして、自分の絵を語る会である。入場料もなければ、販売もしない。絵というものを考える会である。観衆が居てもいい。観衆に質問をするのもいい。その総体として自分の絵を深めるきっかけにできないかという事である。新しい作品の発表方法が出来ないかと考えている。画廊を一日借りて、複数の人が絵を持ち寄り、絵を並べる。そして絵の下に自分の制作の意図を描いて張り出す。絵の前に立ち、15分ほど作者が自作について語る。観衆に質問をするのもいい。観衆が質問するのもいい。それが終わったら、机を囲み討論会を行う。テーマはその都度決めればいい。これが新しい芸術としての私絵画の発表形態にならないだろうか。何とか来年一月位にできないだろうか。今のところ参加者は何人かはいそうだ。