第18回「水彩人展」作品評
同人の絵で言えば、その人の作品の最高の作品を今回4名の人が出品している。その絵が他と較べて、どういう水準であるかはまた別のことであるが、その人が描いた絵としては、今までになく面白いと思える絵という意味。橘史郎さんの絵がまずその第一だと思う。絵が橘史郎という人間に立ち至ったの感がある。何を語っているのかは判然としないのだが、ぶつぶつと私事をつぶやいているようである。その語るものはかなり厳しい。茫漠とした荒野である。枯れ野である。春の芽吹き時でもいいが、秋の夕間暮れでもいいが、ただの風景を描いて居る。人間の中を通り抜ける風だ。見ている私の眼にその風が当たる。深刻になる訳でもないし、希望がある訳でもない。わずかな風は頬にもあたるが、懐かしい匂いがした。確かに記憶にはある世界。しかし、見たことはない世界。こんな世界に佇み、存在する悲しみと言えば、簡単な理解になる。東北で生まれ、東京で生きた人の今。何を語っているのだろうか。
山平博子さんの作品は、重圧である。この度の北海道の大水害を思い起こさざる得ない。開拓の末にやっと成り立つ農業に、自然の理不尽な暴虐。そして、これからの農業環境にも、離農を迫るような、政府の仕打ち。開拓以来の苦難の連続である。山平さんの筆触の中にその思いが伝わる。静かな線が無限に積み重なり、それがいつの間にか立ちはだかる、黒々とした岩の壁になる。ゴロゴロの溶岩だったころの自然の怒りのようなものが、聞こえる。黒い岩が土石流のように流れる。私事ではある。私事であるからこその憤りのようにも聞こえてくる。冷めきったように見える岩がいつの間にか、黒いエネルギーに変わる。「黒漆の崑崙、夜裏に奔る」真っ暗闇の中を巨大な黒い塊が走り抜けている。恐ろしい勢いの疾走する姿ではあるが、ただ静かな闇とも思える。さらに言えば「茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては、飯を喫す」と応えたという。
三橋俊雄さんはほとんど同じ絵の繰り返しである。何十年と同じ対象を同じように描いて居る。全くあきれるように変わらない。動きたくても動けない、高い塔の上で揺らぎながら、揺らすな揺らすなと動揺を見せずに、バランスをとっている。塔が風に揺らげば揺らぐほどに、ここは微動だにしない大地であると思い込もうとしている偽装。良くある静物であり、良くある風景である。同じような対象を同じように描いて居る。しかし、この何処へも行こうとしない停滞こそ、三橋俊雄という人間の、絵空事の行き着いた世界らしい。そういう事が今回画面として吹っ切っている。停滞した前線が実はエネギーのぶつかり合いであるにもかかわらず、その何かは歯がゆく語ることができない。頑なであり、頑迷たる何ものかが隠される。この平穏な静物の装いは、じつにありきたりで、凡庸な姿を装う事しかできない何か。余りに当たり前すぎて、何もないのかもしれない。何もないという事に立ち至る。良く考えてみれば、それですごいことだ。
そして、松波照慶さん。空間を物語として見ている。画面の下の方には、人の暮らす場所。そして画面の大半はそら。空の動きをとらえようとしている。空という自由な素材を使い、動きをとらえようとすることがすべてと言ってもいい絵だ。ところが、下に街があることによって、その動きをとらえるという、絵画的動機ともいえる行為に人間とのかかわりになる。3つの絵がその変容として示される。街は、3つの段階に抽象化され、一枚は空と同じ解釈になる。作者が絵を描く意味を自問していることがよく分かる。画面という場で絵らしきものを示そうという行為がむき出しにされる。絵を描くという行為の意味合いをはぎ落してここまでに至る。その結果空の動きと、人間界のかかわりという物語が、絵本のように示される。松波絵本の最終ページが開かれたような気がした。