西表島稲葉集落
西表島いなば集落は1970年消滅した。その消滅した村の記録の聞き書きをしたものがある。浦内川の中流にあった集落である。最後まで住んでいた方が、平良さんでキッチン稲葉というレストランをやられている。浦内川観光船もやられているのではないかと思う。西表の観光では川をさかのぼる遊覧船があり、島の奥の様子を川から見ることになる。島の中に道はない訳ではないが、林業や炭焼きや、石炭採掘が無くなり、ほとんどの道が自然に戻りかけている。世界遺産になればますます、そうした自然の価値は高まることだろう。「祖内」という西表の東側にある集落が一番古く開けた集落という事らしい。江戸時代には役所もここにあったという事だ。祖内の祭りは古い形を残していて、無形文化財に指定されている。集落から降りて行った海辺に御嶽があり、その浜辺が祭りの場所になっている。村は小高い斜面に沿ってあり、沖縄で一番古い民家が残っている。茅葺き屋根の立派な家である。古い時代の日本人の暮らしの、何かを感じることが出来た。祖内という村はそういう村だと思う。
この祖内から山を越えて、稲葉に出作りをしていたという。稲葉で子供時代を暮らしていた方から、稲葉の暮らしを聞くことが出来た。平良さんという稲葉の記録の本を作られた最後に稲葉を離れた方と、もう一人はお名前は聞かなかったが、70過ぎの方で、神奈川県の大和に20年暮らしたことがあるといわれていた。電気がなかったという事が、稲葉では暮らせなかった一番の原因だと思うといわれていた。1970年に電気がない暮らしをされていたのだ。冷蔵庫もない。テレビもない。これでは今時、離れたくなるよ。と言われていた。しかし、今の時代ならソーラー発電もあるし、観光船もあるし、田んぼのできる平地が20ヘクタールもあったというから、暮らせないことはないだろう。いつか、稲葉にホテルが建てられる時代も来るのかもしれない。それでも西表で暮らしてゆくという事は、なかなか大変なことだろう。
今回西表に行ったのは、田んぼが見たかったからだ。田んぼが耕作されている間に、西表の田んぼの様子だけでも見て置きたかった。田んぼは稲刈りの最中で、刈り終わった田んぼと、もう少ししたら刈るという田んぼだった。全体に穂が小さい気がした。収量はどうだろうか、6俵平均ぐらいだろうか。作りにくそうな田んぼである。土の様子も田んぼには難しそうだった。もともとの湿地を田んぼにしたような感じだ。マングローブの林より一段高い湿地を田んぼに変えていったようだ。もう少し高いところとなると、すぐに山が迫っている。稲葉でも川沿いの平地に田んぼを作っていたというが、良く洪水にやられたそうだ。川が氾濫すれば、道でも田んぼでも水没してしまい、学校に通う事も出来なかったそうだ。学校まで6キロを歩いたといわれていた。収穫したお米を運び出すのも舟だそうで、舟に販売のすべてをお願いしていた。そして生活物資のすべてを運んでくれたそうだ。
今回、石垣島で多良間田跡を見た。古い時代の出作りの形を見ることが出来た。こうした農業遺構は稲葉集落と同じで消え去る寸前である。古い日本人の暮らしの姿をうかがわせる、特に田んぼにかかわる遺構は貴重なものである。なぜ、これほどの困難中田んぼをやらずとはいられなかったのか。日本人と稲の関係である。稲という食料の生産法が、日本人の信仰と切り離しがたいものであり、日本人である根の部分が稲作と結びついていたのだ。たぶん遠からず、そうした記憶も消えることだろう。そして日本人というものも消えるのだろう。稲作によって生まれた旧日本人。稲葉集落が消えたのは私が21歳の時だ。西表が豊かな場所で、稲葉での暮らしほど豊かで楽しいものはなかったとお二人ともいわれていた。その豊かさの意味が、日本では消えかかっている。新日本人がどんな暮らしをするのかは、私にはかかわりがないが、旧日本人の豊かな暮らしの意味は、実に尊いものに見える。