瑞穂の国のアベ政権
安倍総理は、故郷の美しい棚田を引き合いに出しながら書いて居る、『私は瑞穂の国には、瑞穂の国にふさわしい資本主義があるのだろうと思っています。自由な競争と開かれた経済を重視しつつ、しかし、ウォール街から世界を席巻した、強欲を原動力とするような資本主義ではなく、道義を重んじ、真の豊かさを知る、瑞穂の国には瑞穂の国にふさわしい市場主義の形があります。』(文芸春秋平成25年1月号)
安倍氏は就任当初は、美しい日本、瑞穂の国日本という事をかなり熱心に語っていた。最近ではそんなことは言った覚えもないというような態度である。瑞穂の国の市場主義に対して、アベ用語の「新しい判断」を下したという事だろうか。最近友人にその話をしたら、そんなことを安倍氏が言うはずもないという人がいた。そんな感触になっているので、改めてそのことを取り上げてみたい。安倍氏は保守主義者を装ってきた。日本主義者の仮面をかぶっていたといってもいい。アメリカでは、そういう安倍氏を相当に警戒していた。たぶん周辺を十分盗聴した結果と考えられる。ところが以外にも行動は、本物の日本主義者ではないことがすぐに見えてきた。アメリカの議会演説など、いかにもアメリカが喜びそうなことを述べる。広島の原爆ドームの前では、核廃絶主義者のような演説をする。もちろんアベノミクスを語るときは、まるで経済評論家のような、経済展望を述べる。安倍氏ではないアベ氏はその場限りの人気取りの複合体なのだと考えるしかない。だからいけないというのではない。
瑞穂の国を大切に考えることが安倍晋三氏の信条であるなら、TPPによる稲作への影響は小さいなどとへらへらと言えるはずもない。もう展望すらもてないと深刻に考えているのが普通の稲作農家である。日本の稲作を守るためには、国際競争力ではだめなのだ。TPPで経済的に国境がなくなった時に、TPPになつても日本のお米は大丈夫だと主張していた国の委員をしていた農業法人が、ベトナムに行って日本向けのお米を作ることが一番儲かると考えているのだ。TPPを行うのであれば、食糧に関しては別枠にしなければならない。それは国の根本には、軍事力以上に食糧生産があるからだ。国家というものが安定して成立するためには、食糧の確保である。そして、その食料の生産方法が、瑞穂の国を形成していたのだ。瑞穂の国の文化によって作られた人間がいたからこそ、日本という国家が成立したのだ。
瑞穂の国の価値観と対極にある考え方が、資本主義の国際競争力である。瑞穂の国では、共に生きるしかない。相手に勝つことは自分を追い込むことになるのだ。競争では解決できない農業が、水をめぐる稲作農業だったのだ。だから、瑞穂の国と言った時には、その背景にある農村共同体が連想される。弱者も強者もその役割に沿って、能力のある者も、ない者も、共に生きる以外にない共同体の暮らしである。そこから思いやりとか、もったいないとか、おもてなしとかいう、日本人らしい信条が醸成されたのだろう。相手が良くならなければ、自分もよくなれないという社会が瑞穂国である。「道義を重んじ、真の豊かさを知る、瑞穂の国には瑞穂の国にふさわしい市場主義の形がある」と、新しい判断をする前の安倍氏は書いて居たのだ。
今までの自民党の総理より以上にアベ氏を嫌う理由はここにある。口先で瑞穂の国をたたえるインチキこそ許しがたい欺瞞と感じるのだ。この人の人間の奥には、田んぼを大切なものだというような人間を感じたことがあった。ところが、総理大臣という役割を演ずる中で、すっかりそういう上質な人間性を捨てた。自分の頭脳がそれほど明晰でないためか、人の意見に従い自分というものを捨てることにためらいがない。その結果、瑞穂の国も捨てたのだろう。所がこういう事情だから、捨てたとという自覚すらない。口先では農業所得の倍増などという、あり得ないことをいまさらのように口走っている。アベノミクスの第3の矢にもなると発言したこともあった。そして、結局のところトラウマと思われる、憲法改定にしがみ付いているのがこの人の実人間である。