備前焼を使ってみて
備前焼の食器を中心に暮らしている。購入したものだ。自給をめざす以上、自分の食器ぐらい自分で作りたいと思っている。まして、焼き物はやっていたこともある。窯も家にある。粘土もある。いつでも焼ける状況なのだが、自分の食器に関しては作る気になれないできた。焼き物を見て来て、自分が焼いたお茶碗でご飯を食べたいとは思えないからだ。何度か挑戦したが、ごはんが美味しいお茶碗は作れない。自分で焼いたものの幾つかはギャラリーに並べてある。食器もない訳ではないが、どうも普通に使うようなものを作れないのだ。いざ作るとなるとついつい、無意味なものを作りたくなってしまう。役に立たないものの方が面白く感じてしまう。困ったことだがひねくれ者なのだ。自給精神が不足しているのか。どこかに難点があるのだろう。
言い訳で始まるしかないのだが、それくらい備前焼の食器が気に入ってしまった。備前焼と言っても様々だ。多様である。「干寄(ヒヨセ)」と呼ばれる、田畑から採掘される粘土。田畑の地下2~4mのところに30~90cmほどの薄い層から採る。これと黒粘土と混合して、自然の釉薬が全体にかぶって釉を使っているようなものもある。呼び名をまとめておけば、ごま、かせゴマ、玉だれ、こげ、被せ焼き、ぼたん持ち、抜け、火だすき、紫蘇色、自然サンギリ、炭ザンギリ、塩備前、窯変ころがし、金彩・銀彩、石ハゼ、そして総称として、備前、青備前、黒備前、白備前、実に多様だ。多様でありながら、1200から1300度の高温で焼き締められているだけのものだ。使い込んでゆくときの素焼きの肌の変化が面白い。焼き方と土の性格で、色の変化が違う。備前焼は使っている内に良くなると言われる。しかし、20年使っておかしな古色になっているという備前焼が普通だ。
ここが厄介である。時間とともに良い色合いになってゆく器が、良い備前焼。骨董の備前焼の色でもほとんどが大したものには見えない。江戸時代のものだからと言って良い色のものなどめったにない。良いというのは、好みのという事だが。自分がそれで食べたいというお茶碗がないという事だ。抹茶椀はかなりの数あるが、ご飯を食べたい器になると難しい。器は焼き上がりはまだ途上なのだ。作家としては制作は終わっているのだろうが、まだ最後の結果は見えてきていない。もちろん完成の想像は出来る。そこで、これは良くなるぞという器を見つけて使い込みたくなる。使って良くなるという期間は1か月である。もしかしたら、その後50年使うと悪くなるものかもしれない。使い心地の良い時代があるような気がする。良くなるものは1か月で良くなる。何年もかけて良くなる言うようなものではない。1週間使えば、どこまで良くなるかの完成が見えだす。ここが面白いのだ。毎日茶碗を眺めながらご飯を食べることになる。
何故風合いがよくなるのだろう。素焼きだから、何でも吸い込むに違いない。この吸い込んでゆく具合が焼成と土質でずいぶん違うはずだ。低温焼成なら最初は良い吸い込みになる。しかし、吸い込んでただ黒ずむというだけになりかねない。高温の素焼きであれば、吸い込みながらも自分の持つ色合いの強さが残る。良くなる土がある。火の回りが良くなる窯がある。焼き上がりで出来上がっているようなものは範疇の外である。時には釉薬を吹き付けたものさえある。良くなると思ってもそうでもないものもあれば、思いのほか良いものに育つ器もある。備前の玄明という人の器を多く使っている。なぜか色がほかの人のものより、使って良くなるからだ。好みの色合いが表れてくる楽しみがある。ごはんがおいしい色だ。ところがご飯じゃわんではやはり使えない。ご飯じゃわんは繊細でないと難しい。玄明作で良いものは持つのが疲れるように重い、ドンブリだと思っている。