教育の無償化

   

日本の教育をすべて無償化すると、7兆円という試算が出ていた。京都大学の先生が出したものだ。この試算は現状のままで無償化した場合とのことである。家庭側から負担をみると、幼稚園から大学まで国公立の場合で約1000万円。全て私立の場合は2,300万円にのぼると試算されている。これから少子化が進むのだから、徐々に下がってゆく試算である。相当の高額である。高額であるが、それだけの価値はあることだと思う。教育は苦しくとも、未来に投資するというのは国として健全なことではないだろうか。国民全体が教育を負担することは一つのやり方である。1億人が7万円づつ負担するという事だから、極めて高額である。逆に言えば、子供の教育が親の負担にされて、それだけの高額の負担になっているという事だ。

教育は必ず日本の社会の力になる。受益者負担という事で、日本では保護者の負担になっている。これは先進国では珍しい国という事だ。私は高校、大学と自力で教育を受けた。そうした道がまだ可能なものとしてあったのだ。それが、日本の社会は50年たってもう自分の努力だけで教育を受けることは不可能になった。世の中が年々悪くなっていることがこういうところで分かる。日本人は他人への思いやりを忘れてきた。自分さえ良ければという社会になりつつある。能力主義に転換したのだ。能力があるから優遇されればいい。受益者負担で親が資産が有る者だけが、良い教育を受けられる。こんな社会に日本は変わった。人を育てるという事を忘れ他者かい。努力不足や、能力不足を本人の責任だけだとして考えている。こんな社会を目指したわけではなかったはずだ。何とか敗戦国家日本を立て直そうとしてきた結果、格差社会になっていたというのは悲しい。

教育は各人の努力が必要である。努力するためには確かに競争の原理はある。受験勉強も必要である。悪平等を望むわけではない。自分という人間を深めるために教育を受ける。自己探求の時間を持ち、自分を見つめる期間が人間には必要だ。教育は企業の必要な人材を育てるという傾向が強まった。大学がまるで職業訓練校のようでに就職に焦点があてられる。学問も企業と連携するようになり、研究はすぐにも役立つものに補助金が厚くなる。就職のための教育では、確かに受益者負担という事になる。学問は人間と社会の為のものだ。教育は自分の為であると同時に、社会全体の為でもある。私が描いた絵が社会の役に立つのかと言えば、ずいぶん遠回りかもしれないが、未来の社会の役に立つものだと思っている。瑞穂の国としての日本の姿を、描き残すものと考えている。急に注目されるようになった若冲の絵が全く古くないように、絵画というものは時空を超えて、時代の姿を伝えることができる。すぐに役立たないものでも、いつか意味を持つものはあるはずだ。

教育の費用は相続税から出すことが、ふさわしい。親がどれほどの資産家であれ、貧困家庭であれ、子供は同じところからスタートした方が良い。相続税を7兆円上げて、必要以上の資産を子供に残せないようにした方が良い。実は教育費を算出した京都大学の方も、原資を相続税と考えてその試算もされている。荒唐無稽と考えない方が良い。やろうと考えれば可能なことなのだ。生涯稼いで残した試算の一部を次の世代の教育に用いる。これは社会の在り方として悪くないことだ。大阪維新の会は参議院選挙の公約に、大学までの教育の無償化を主張するそうだ。何故そういう政党が、平和憲法を変えようなどと考えるのだろうか。民進党も是非とも教育の無償化を明確に主張してもらいたい。老人が増えるが、老人よりも、子供である。しかし、政府はどうしても老人を重視する。老人は数も多い。その上投票率も高い。選挙を意識すると老人向きの政策が出てくる。18歳投票権で少し変わるかもしれないがどうだろうか。

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