人物画について
リンカーンの言葉に「男は40歳を過ぎたら自分の顔に責任を持て」という言葉があった。自分の顔に責任が持てないで生きてきたので、嫌な言葉だと思いながらいつの間にか40歳を過ぎた。確かにリンカーンの顔はなかなかのものだ。その自信がこうした言葉になったのだろう。この歳になれば、顔とは限らずすべてに責任は持たざる得ないという事に気づかざる得ない。外見で人間を判断するというのは、余り喜ばしいことではないが、全てが外見に表れているなあとも思う。良い顔の人がいる。良いと感じるのは別段性格が良いというのでも、見た目がうるわしいというのでもない。命あるものとしての生命の輝きがあるという顔である。生き生きと生きている顔である。鶏を長年飼っていて、鶏の眼付様子でその元気さは判断できる。元気な鶏は見ていて力を貰える。人間も同じことなのだろう。顔色を見るのはお医者さんだけではない。
人物画というものがある。特に西洋では人間を研究するという意味が学問芸術の根本にあるようだ。ルネッサンスとか、人文主義とか、ヒューマニズムというようなものだ。人間の研究の為に絵を描く、ダビンチのモナリザにある人間の探求。レンブラントの自画像の連作。そしてセザンヌやゴッホのように、お隣にいる普通の人間の真髄に迫るように描く。その奥に人間とは何なのだろうという、探求心が現れている。その意味では日本の肖像画が立派な人を立派に描くという物のようだ。理想像を求めるような方向とは異なる。写真は西洋で言えばるレンブラントやダビンチの時代よりも300年も古い日本の肖像画である。《伝源頼朝像》《伝平重盛像》《伝藤原光能像》の三枚が国宝としてある。様式化された中、一つの美術としての人間像が描かれている。美的なものとしての人物像である。100号サイズである。中国の宋の時代の絵画に影響されているとされる。
この3枚の絵で特出すべきは様式化である。束帯姿で、黒色の袍(ほう)を着用し、冠を被り、笏(しゃく)を持って威儀を正し、太刀を佩用する。様式は統一されている。顔だけを載せ替えるがごときである。人物の表現には宋の絵画の影響もある。この時代の人間観のようなものも反映しているのだろう。位と立場が人間より先行している。多分に肖像画というより、様式化された権力者像なのだと感ずる。抽象画であったとしても、すごい入り方だと思う。この黒い衣装を形どる幾何学形の画面へのはまり込み方の決定的な印象が、様式化というものなのだろう。一部の隙もなく複雑な形が絵画される。こうした絵を見ると、西欧の人間観と東洋の人間観はまるで違うものだと感ずる。東洋は個人の人格というより、その人物の役割というものが絵画対象なのだと思う。
南宋の絵画。
日本の絵はヨーロッパの絵画とは違う。特にそのことが人物画を見るとわかる。日本の絵はある種の記号なのだ。図式と言ってもよい。仏画であれば、仏という意味の説明が重要になる。西欧の絵画が自分という人間の表現に進むことと違う。江戸時代の浮世絵のように、力士や役者や太夫や美人を描くことでその役割の記号としての意味表す。それぞれの役割のプロマイドのようなものである。プロマイドはその役柄の理想化が必要である。力士であれば、より横綱らしい力士を描く。そのあたりの当たり前の人間を描き、人間というものの本質を表現しようというような方向には行かない。キリスト像はキリストの苦しみやその思想が絵の上に表れ、その図像によって宗教的感化を目的とする。仏画が観念的な理想像を描くことと根本的に違う。