水彩画と素描

   

水彩画を描くときに鉛筆で下描きをする人がいる。これはやめた方が良い。書をやる人で、まず鉛筆であたりをつける下描きをする人は居ないだろう。水墨画を描くときに鉛筆で下描きをする人は居ないのではないか。水彩画も全く同じことだ。鉛筆で下描きをしてから描く理由は、油彩画から始めた人の間違った癖に過ぎない。油彩画の場合、木炭でデッサンをしてから、それをフキサチーフで止めて着色に入る手法が指導される。油彩画の性質からさして木炭デッサンが残らないからだ。それは色彩で見ないで、「形の骨組みを見る」という考え方から来ているのだろう。ところが、水彩画の場合最初の鉛筆の下書きが完成した画面に残る。そしてこの下描きの鉛筆線が水彩画のみずみずしさを阻害し、絵を台無しにする。油彩画を主に描く人にはこの繊細な味わいが理解できないらしい。だから、無神経に鉛筆線を残す。それくらいならまだましな方で、明らかに自慢げに鉛筆デッサンを見えるように残す人も居る。素描を腕の見せ所と考えている驕りが見えてしまう。絵描きとして恥ずかしいことだと思う。

水彩人でも鉛筆の線は減ることがない。私に影響力がないというのは、当然かもしれないが、たぶん鉛筆の線が必要で外せないのだと思う。正直に言えば、絵画というものの意味を誤解しているのだろう。表面的な描写までで十分な絵画だと考えている節がある。真っ白の紙に筆で水彩絵の具を付けて始めるのは度胸がいる。一度描けば取り返しがつかない。ドキドキする。この先出来るのかどうか。たどり着けるのかどうか。もう出だしでダメにしてしまうのではないか。何十年やっていても緊張する。水彩画も何枚も描くくらいの覚悟で挑むべきなのだ。私も水彩画の初心の頃は鉛筆でデッサンをしていた。油絵を描く流れで始めたからだ。ところがある時から残って見える鉛筆線が汚いものだと気づいた。そしてこれを無くす方法を考えた。簡単なことだ。ステッドラーの水彩鉛筆の黒を使ったのだ。これなら、描いている内に消したいところは消せる。1年ほどそれをやっている内に水彩鉛筆もいらなくなった。

鉛筆線を取り除いて見て、初めて水彩画というものが分かった気がした。紙を薄く覆う色彩の調子の美しさである。鉛筆の黒い線はその微妙な調子を台無しにする。しかし、逆もまた真なりであり、鉛筆の線があるから美しい水彩もある。さらに、汚いから良い絵だという事もある。そういう矛盾したものだから絵は難しい。本当の美しさをわかったうえで鉛筆を使うのであれば問題はない。中川一政氏が自分の名前に下描きの鉛筆線を入れていたのだ。それがまた自由で気持ちが伝わる良いものだった。その鉛筆の線とは別の動きで名前が書かれている。その名前に悲しい思いが込められていた。私の師匠の山本素鳳老師の葬儀に送られた花に掲げられていた。若く死んだ甥に対する悲しみが溢れていた。その字を見て泣けてならなかった。その字をもらって帰ろうかと思ったが、やはり燃やすことがふさわしいと考え、私の頭の中にだけ残した。

素描というものの意味が肝心だ。絵を描くという事は描くべき真実が見えるという事がまずある。その真実の表わす方法として絵画を選ぶという事なのだろう。その真実を探る素描というものがある。音楽でそれを表す。詩で表す。文章で表す。様々な方法があるだろう。その前提に真実が見えるという事がなければ、どうにもならない。真実と書いた言葉ではその実態のすべては表していない。私には絵で描くしかないのだが。そのある様相を描くためには、見えている物の成り立ちが見えなければならない。それを見付けようというのが素描の目的になる。水彩人の仲間の松波氏がブログに分かりやすく書いている。すべてを言い表している。全く同感である。付け加えることもない。デッサンとは骨組みを見つけることだと。だから水彩画に鉛筆線の下書きは困るのだ。

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