久野舟原の田畑

   

早朝に舟原の田植えを待つ田んぼ。東に見えるとがった山が、丹沢の大山である。

舟原に越してきたのは1998年5月らしい。養鶏場の場所を探し始め、すぐ見つけている。そのころは山北の家もそのまま使うつもりで、徐々に小田原に引っ越してきた。山北に来たのが、1986年と記録されているが、山北に13年居て小田原に越した。小田原も20年になる。すぐ忘れてしまうのだが、今回記録帖を調てみてわかった。ブログを始めるまで、記録だけはつけていた。記録帖には主に写生地を記録してある。何月何日、何処の桃が咲いていた。など書いてある。鶏の成長記録などもつけられている。実用的なものだ。小田原にも長く住んだものだ。今は久野には農の会の関係の畑が、4haほどある。それはそれだけ久野の農地が危うくなっているという事でもある。舟原には1haほどの農の会関係の田んぼと、畑がある。舟原の溜池の周辺に6反続いている。越してきたころは溜池にはまだ水があり、かなり大きな池だった。

草刈りをした後の今の溜池。

溜池の周辺の草刈りは一人で一日で出来る。普通草刈りは年間5回は必要になる。何処でも草管理が出来なくなり、除草剤がまかれるようになる。次の段階で農地は放棄される。この溜池も、下の田んぼが水を使わなくなり、放棄されてしまった。しかし、写真のように素晴らしい場所なので、何とか維持できないかと考えている。このまま行けば、久野の田んぼは10年でなくなる。400年続いてきた、久野の暮らしを伝えるものだけは残したい。小田原で新田開発が行われたのは北条氏の時代と思われる。素晴らしい農業経営がされた歴史が消えてゆく。せめて、溜池を農業遺構として残して、次の世代の子供たちが昔久野で田んぼが作られていたという事を伝える必要がある。しかし、私がそういう事にかかわれるのも、何年もない。何らかの形で管理の継続がされることを願っている。

舟原のタマネギ畑。舟原溜池のすぐ下である。そこそこの出来になってきた。6月半ばに収穫するつもりだ。葉がすかっり枯れてしまわない限り収穫をしない。一グラムでも大きくなるような気がして、もったいなくて収穫を遅らせる。天候にもよるがその方が保存性が良いという事もある。もちろん塔立ちしてしまうようなことがあれば、それはダメだ。タマネギのできは悪いが、塔立ちもしない。みんなの中では、極めて悪かった私のタマネギも、それなりになってきた。写真のマルチの所とその隣などは、まず普通の農家さんの出来まで来たのではないか。奥の方ほど良くて、一番奥にもう一か所マルチをしないで植えたところがあるのだが、ここは結構大きくなった。どうもマルチはしてもしないでもあまり変わらないようだ。まだタマネギのことは分かった気がしない。小田原は今年はどこでもタマネギは良かったと言われている。今年の春の天候が玉ねぎ向きなのか。

ジャガイモクラブの草に埋もれたような私のジャガイモである。

舟原溜池のすぐ下にある続きの畑だ。少し下葉が枯れてきたが、まだ我慢している。お隣さんはすでに収穫しているそうだ。6,7個ついているらしい。私はどうだろうか。5個を超えることは少ない。それでもそこそこ収穫できそうである。小学校の学校の畑では10キロが100キロになったと昨年言われていた。100キロの収穫が目標ではあるが、多分60キロぐらいになれば私としては上出来である。奥の方と手前ではずいぶん出来に違いがある。原因がよく分からない。新しい畑は落ち着かない。ジャガイモも葉がすっかり枯れるまで収穫はしない。家の畑のジャガイモは何か月も掘りながら食べるぐらいだ。その内どこに植えたかわからなくなる。それでも、これでタマネギとジャガイモが一年確保できた。何とも言えない安心がある。平和という感じなのか。

 

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