絵画の言葉化2

   

思考を言語化するという事が言われる。正確な論理性を持つためには、考えていることを言語化する必要がある。宗教でも言葉が必要となる。哲学であればなおさらである。美術にも言葉化することで明確になることがある。幼児的なスキキライ判断ですませていては、絵画を深めることは不可能である。思考すること、考えるという事は言葉で考える場合と、感覚的に反応する場合があるのだろう。おいしいということは、全ての動物に備わった美味しいものは食べれば生きることができるという原点がある。その感じたことを量的にとらえ、すごくおいしいかったというだけであれば、どのように美味しかったのかまでは人には伝わらない。伝わりにくいだけでなく、実は自分にとっても、美味しいというひとくくりの感覚にとどまっていることになる。言葉化するとは自分が感じた美味しいさを、自分個人の独自のものとして、分析してみる行為である。そして言語化することによって、自分がどのような美味しさを望んでいるのかが、確認できるのではないだろうか。

美味しそうという感覚が、安全に食べることができるという事であり、タベレルという感覚が美しいというものにもつながる。絵を描いてみるという事は絵に描いて、自分の頭の中で感覚として生まれた価値のあるものを、画面という世界に表わす行為。人との間に有る伝達された表現として、客観性のあるものになるという事であろう。それは、私絵画であっても同じことである。むしろ、私絵画であるからこそ、自己の内部世界の、客観的思考が必要になるのではないか。絵画の言語化とは、自分の内部に芽生えたものを、画面化する過程で、言葉に置き換えてみることで、その意味を反芻して、深める行為である。絵画的思考を記録する、再現する、さらに深める、人と共有化するという事になると、言語化が必要となる。日本の職人的絵師であれば、弟子が黙って絵画技法を盗めという事になる。しかし、新しい美しさを発見し、創作する。そこには見る人を含めた文化的な共通性が必要となる。それが言葉化する意味だ。

自分の精神に入り込んだ絵を描くためには、何を描くかが分かっていなければならない。美しいものを描くとすれば、なぜ自分が美しいと感じたのかが分からなければ描くことができない。自分が感じるという言ことは特殊なことなのだ。みんながその花を美しいと言って絵にも描いて居るから、その美しさを絵にしようというのが、お稽古の絵である。表現ではない、手順の絵である。自分の美とは何か。自分が描きたいと思うものを突き詰め、その自分独自の世界が立現れた時に、絵はその人の絵として意味を持つのではないか。自分の存在を探り当てるためには言語化して、自分の美を探る必要がある。絵が言葉にならないという事の多くの場合は、自分自身が理解していないためだ。分かっていないが何かありそうの範囲で絵を描いて居るからだ。確かに大半の絵がそういう甘さの範囲で描かれてきたとは言える。良い絵というものは、この実に曖昧な世界を、作者の明確な絵画世界としてあらわしているものだ。

では言葉で分かったことだけ描けばいいのかと言えばそれも違う。言語化するというのは、分からないという問題個所を明確にするという事でもある。絵画は分からないという事の重要性を、分からないままに表現できる手段でもある。詩のおもしろさはまさにここにある。何か魅力あると感じている世界を、言葉化してみることで扉を開けることになる。絵も何かあるという想念を画面に具体化することで、その世界を解き放てる。自分の絵の分かっている範囲とまだ曖昧なところが明確になるという事がある。言葉化してみることで内容が、その言葉がわかり切った範囲であれば、実はその人の絵はそんな常識の範中の絵という事でもある。言葉化できないから絵を描いて居るとしても、その言葉化できない周辺を言葉化する努力によって、自分の絵がやろうとしていることが見つかるかもしれない。昨日今日と、ここまで書いて見て考えた。つまり考えていることを言葉化してみた。

 - 水彩画