棚田の手入れ方法
棚田は手入れの持続で出来ている。世界農業遺産には中国元陽のハニ族の棚田は標高差1000メートル、500段に及ぶという。フィリピンコルディリェーラの棚田の総延長は20,000kmを越える。能登半島の海に面した棚田の海と山とのかかわりの永続性。これらの背景で行われてきた何千年という「手入れに」について、わずかとはいえ身をもって感じるところがある。なぜこのような行為が東洋では継続できたのか。ここを考えてみることが大切になる。手入れが一度途切れれば、棚田は崩壊する。農業も競争の原理で行うことが、資本主義経済の正しい原理だとすれば、棚田は崩壊する以外にないという事になる。手入れの必要な田んぼに経済の合理性があろう訳がない。日本の棚田が失われ、フィリピンや中国の棚田が維持されるとすれば、日本が文化的に劣っているという事になる。
棚田の景観を故郷の景色として思い起こす。棚田の美しさには理由がある。人間の営みの歴史と、ご先祖様とのつながりである。その土地に生きる人たちの心が景色を作っている。取り過ぎず、貪らず、子孫に繋げてゆく思いが棚田にはある。この水土技術の背景が、天皇家を中心とした先端技術としての水土法があったと考えている。この技術と思想の合致が日本という国を形成したのではないか。欠ノ上田んぼでは冬の間に何度かの手入れが行われる。畔の下に大きな穴が開いてしまうからだ。それは日本中の棚田で起きている手入れと変わらないことだろう。土の畔であれば、毎年崩しては積み上げるという作業があるはずだ。水路が入り組んであるために、水路からの流入水が田んぼの下をえぐっているという事がある。水路脇の石積みの裏が空洞になってしまうのである。もう一つが、田んぼの下に水の路が出来ていると考えられる。山側から川に向って、いくつかの水の路が存在しているようだ。田んぼの下の空洞が、突然陥没する。人間の背丈ほどの穴が開いてしまうのだ。こうした水が常に田んぼ周辺を流れている状態だから、田んぼの山側の数か所では湧き水が起きている。
棚田の修復方法は実に中途半端なものだ。中途半端のまま、毎年維持してゆくような感じだ。この完全には治らないが、崩壊には至らないように、かろうじて維持してゆく感じが、大切なことなのだと最近は考えるようになった。曖昧なままの持続の重要性。完全に治すならば、コンクリートの畔にするほかない。しかし、コンクリートの畔は見苦しいものだ。加えて管理がとても難しくなる。2メートルある壁面をすべてコンクリートにするなら、欠ノ上3反分でも莫大な費用をみなければならないだろう。お金だけのことではない。美しい場所で働くという事はとても大事なことなのだ。積み上げた畔は草花の宝庫だ。田んぼの畔で、餅草を摘んだものだ。秋になれば彼岸花が稲穂と織りなす美しさは格別である。ここで働ける喜びがあれば、来年も土の畔の修復に頑張ろうという気持ちになる。喜びで維持されている棚田。
欠ノ上田んぼの冬の作業の、もう一つは日陰を作る木の伐採である。対岸の山が手入れがされないために、川を覆うように木が茂り、田んぼを日陰にしてしまう。しかしどうもなかなかできない。常にこうした自然に戻そうという力をかわす努力を行わなければ、棚田の維持は出来ない。何故山の手入れができないかと言えば、収入にならないことは誰もやらない時代になったからである。昔は燃料を取るという事が里山の役目だった。15年から20年で、薪炭林を切るのである。根元を残しておき、林の再生を待つ。手近かに薪山を持つことは暮らしの豊かさであった。そこから落ち葉を集めて堆肥を作る場所でもあった。今年こそ中国、元陽の棚田を見に行きたいと思っている。水の回し方と、その手入れの姿を見たいと考えている。標高差が1000メートルもある田んぼという事は、どうやって水を落としてゆくのか実に興味深いではないか。どんな修復工事が進められているのかである