自給力
自給は出来る人とできない人がいる。残念ながら自給は誰れにでもできる、とまでは言えない。簡単なことなので、何故できないのだろうと思っていた。結局のところ自給が好きかどうかだった。好きこそものの上手なれで、自給の工夫が面白くて、あれこれやりたくてしょうがない。先日も塩は自給しているのですかという質問を受けて、残念ながらやっていないと、やる寸前までいって、原発事故で海が放射能汚染してしまいやる気にならなくなってしまった。と話しながら一度はやってみたかったと思い出した。塩の自給はどうすれば誰にでもできるやり方があるか、というようなことを考えていると、妄想が限りなく広がる。夢物語であるのだが、そんなことを考えること自体が面白くて仕方がない。自給農業が広がってもらいたいとすれば、どうすれば自給力が高まるのか。具体的な自給力向上方法を提案しなければならない。
第一は確かに体力である。私の現在の体力では始めることは出来ない。すでに軌道に乗って維持の段階に入っているので、まだ大丈夫だが、年々きつくなっている自覚がある。体力については、農作業を体力増進法だと思って毎日やることだ。どんな健康法でも続けられるかどうかなのだが、自給農業を一年継続してやれば、体力のない人でも体力がついてくる。農作業の体力は、持久力の方だ。楽しく一日働くには疲れない身体が基本である。
第二は物を見抜く眼力である。目に映るという事と、物を見るという事は違う。物をよく見るという事は、なかなか難しいことだ。同じものを見て、そこにある兆候を読み取れるかどうかである。だから、明日の天気がわかる人かどうかと言っている。情報は山ほどある、その集め方を知らなければだめだろう。そして、その地域性とあたりの様子で、明日の天気を予測しなければならない。明日の天気予報の確率が高い人ならば、作物のこの後の展開も読める。作物の去年との違いを見抜いて、記憶できるかどうかである。
第三は科学的な思考力である。近代科学の成果を十分に利用できる人である。江戸時代の自給方法を近代科学の目で、組み立てなおせる人である。自然農法は、科学的でなければならない。自然を分析する科学的な思考を持たなければならない。それは近代農法以上に自然を熟知しなければ、自給農法は出来ないという事である。自然農法はとかく妄想にとらわれ、たまたま起きたことを神の力にしがちなものだ。どれほどの不思議でも、必ず科学的根拠があるので、徹底した探求の科学思考をしなければならない。
第四が妥協力である。諦めが肝心という事だ。諦めとは明らかにして理解すればいいという事だ。自給農業は失敗から学んでゆくようなものだ。ダメだったとという中に、より多くの真実が隠れている。上手くいったときが偶然の産物という事もある。失敗でめげる。自給の食べ物以外は食べないとルールを決めてやってきたのだが、平気でそのルールを破って外食をしている。原則にこだわる人には、案外に自給は出来ない。機械力を上手く取り入れるのも妥協ではあるが、こだわらないことだ。
そして、最後に自給力の一番は自給が好きという事になる。問題は好きになるには、やってみなければわからない。思い込みで初めて見たら、案外に本当に好きになってしまった気がする。山梨の山奥で自給の山寺で育った経験から、農作業は嫌でつらいものであった。それが観点を変えたらば、不思議に好きになってしまった。人間好きなことを見つけられれば、半分はやれたようなものだ。絵も好きだし、三線も好きだ。鶏も、犬も、猫も好きだ。自給も面白くて、今ではやらないと我慢できない。何とか生きていられれば、好きでない他のことはどうでもいいことになる。絵が好きだから、自分の絵を描きたくて自給生活に入った。そして自給の工夫が面白くてたまらなくなった。