憲法解釈の変更の不思議
安倍政権は積極的平和法なのか、戦争法なのか、いずれにしてもホルムズ海峡まで自衛隊が出動できる法律を、提出している。この法律が違憲であるのか、憲法解釈の範囲内なのかは、学問的には違憲と言えるのだろうが。政治的には微妙な所にある。だから、保守派からは、先ず憲法を改定してから法律を作るべきだという意見が主流だ。中谷元・防衛相は10日の衆院平和安全法制特別委員会で、集団的自衛権の行使を容認した政府の憲法解釈について、将来的に安全保障環境が変われば解釈が再変更される可能性もあるとの認識を示した。会見では、安保法制に合わせて、憲法を適応させて行かなければならないという説明をした。こうした考え方は、明らかに立憲主義を否定している。憲法に従い、国政を行うのが、立憲国家である。現実の国際情勢や、それへの対応という政治的判断に、憲法を適合して考えると言うのでは、立憲国家ではないという事になる。
野党は安倍氏よりも中谷防衛大臣に質問を集中させる作戦に出た。中谷氏が本来安保法制の違憲論を主張してきた、憲法改定前提論の人だからだ。所が、安倍氏はしゃしゃり出て、議長に発言を求める。総理大臣のこんな姿は始めて見た。普通は総理大臣はなかなか答弁に出ないものだ。安倍氏には、与党の数に頼んだ妙な確信があるのだろう。これは野党のチャンスではないか。安倍氏のしゃべっているのはあくまでせりふである。本人の言葉を引き出せば、とんでもない言動が出てくるはずだ。憲法について国会でもっと正面から議論してもらいたい。どうせ水掛け論になるのだとは思うが。ホルムズ海峡が戦闘状態にある時に、対立国の機雷除去が、いかに憲法の拡大解釈なのかを、国民に知ってもらう必要がある。もしそこまでやらなければ、日本国の防衛が成り立たないというのであれば、憲法改定が必要である。
日本国憲法では国民の不断の努力を求めている。まことに不思議な憲法である。「憲法に定められた、自由と権利は、不断の努力なしには守ることが出来ない」とされている。自由の権利は努力なしには、守る事が出来ない、と言うことを理解した人が造ったものだ。それを国民の義務に入れているのだ。この12条の文章はすごい。武力を放棄して、世界平和を希求するとして、日本人はそれに向けて不断の努力をしなければならない。そういう精神を根底に持つ素晴ら過ぎる位いの憲法なのだと思う。余りに素晴らしい物なので、汚れた現実世界では、使いこなせないのだろう。そこでつい憲法が建前として置いておかれることになる。世界遺産と言えるような憲法である。このブログを書いているのは、平和のための努力のつもりである。しかし、これだって不断の努力と言われたら、そこまでは言えない。他所の国の憲法にもこうしたことは書かれているのだろうか。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。平和への努力は前文に示されている。日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。すごい憲法である。日本人としてあるという事は、この世界平和という崇高な理想を、武力を用いず、諸国民の公正と信義を信頼して進と断言している。積極的平和主義などという、誤解を招く言い回しはどこにもない。平和にまっすぐに、名誉をかけて進もう。という見事に率直な憲法なのだ。憲法解釈の変更が現実主義というが、その限界が来ている。現状ではいかにもご都合主義の泥縄である。正しいと考えているなら、憲法改定を正面からやるべきだ。解釈変更などというやり方では、日本国の立派な憲法を精神が衰退するばかりである。