エネルギー自給
フクシマの原発事故を体験して、エネルギーも自給しなければならないと考えるようになった。自分の暮らしが原発の危険の上に成り立っているのでは、耐えがたい事である。原発事故を体験して、現代社会の問題点を感じるようになった。すべてが今日の経済優先で動いている。利益を追求することを目標に社会の方角が向いている。その事は分かっているつもりでいたが、やはり事故に遭遇するまで身に沁みては理解していなかった。社会はその方角を相変わらず求めているので、再稼働という信じがたい事が起きてきている。この利益を目指す力はものすごいもので、地方消滅と、創成という事と連動している。過疎地域の行き詰まりの打開に、都会の迷惑施設を引き受けてもらう構造。確かに東京に原発があり、津波で崩壊していたら、日本は致命傷を負っていた事だろう。原発の迷惑はその核廃棄物にもある。人類としては未来永劫、核廃棄物を何処かに安全に格納しておかなければならない。これも当然、消滅を迎えそうな地方が候補地になる。さすがに、いくつかの立候補があったが、みんな立ち消えになり、もう候補地すら見当たらない。そこで、法律の方を立候補から、指名に変えると言う。
フクシマ事故後見えてきたのは、日本人が進取の気性を失ったという事だ。松下幸之助さんや、本田総一郎さんの様な人が現れなくなった。原発事故を受けて、この機会に再生可能エネルギーを日本の次の産業にしようと言う人が登場すると期待していた。政府もそういうものを後押しすると表明はしている。にもかかわらず、世界から見れば、その新分野での展開で、日本が遅れをとっている。これは不思議な気がする。日本人のかなりの人が、自然エネルギーへの転換を期待している。税金も投入するとしている。そうした背景があるにもかかわらず、転換が遅れている。日本は自然エネルギーの資源はそれなりに有る国だと思う。このエネルギーは埋蔵資源と違い、比較的何処にもある。かなり平等な資源と思われる。何故、この分野で日本が遅れを見せ始めているのかを、真剣に考えて見る必要がある。日本人の劣化の様な物がある様な気がしてならない。
ともかくエネルギーを出来る限り使わない暮らしという事を考えている。暖房は止めて、だいぶ経った。この冬も暖房なしで暮らした。その上で、せめて自分が使う分くらいのエネルギーは自給したいと考えた。風力は専門会社に来てもらって調査してもらったが、このあたりには適地が無いという事だった。水路発電も色々調べたが、許可をとる事が難しすぎて無理と判断した。その結果太陽光以外に、自分が設置できる自給エネルギーはないという事になった。太陽光については、他の手段に比べて幾つか問題点があるということも分かった。そのパネルの生産エネルギーがかなり大きいこと。その廃棄も問題になる。しかも、晴天時に電気の生産が集中する。その蓄電手段がまだ十分に技術開発されていない。改善すべき開発途上の技術だ。
だいぶ迷った事ではあるが、原発電力を購入する暮らしを続ける事には耐えかねる物があった。もう見切り発車的に、太陽光パネルを設置した。原発の再稼働よりましだと思ったからだ。自給生活である。自給生活を目指すという方角は、人類にとって生き残る不二着地点だ。利益を目指さない生き方である。地場・旬・自給を提唱したときに、旬という言葉の中に、エネルギーの無駄な消費をしないという事を考えていた。電気の軽トラに買い替える予定ではあるが、これも、いつになっても前に出た1種タイプだけで、実用には不十分である。古い11万キロも走った軽トラをだましだまし使っている間に、何とか出てくれないか。自然の循環に織り込んで行く暮らし。寒い時は寒さを感じながら、その季節の旬というものを味わう。現代の科学技術を良い方向で生かしながら、地場・旬・自給を目指す。やはりこれしか人類の不二着地点は無いようだ。