震災から4年

   

どちらかと言えば、緊張する性格だと思う。今まで65年で一番緊張したのは高校生の頃、演劇部で舞台に出た時だったと思う。頭の中が真っ白になって何が何やらわからなくなってしまった。思い出しても冷や汗が出る。陸上競技で、インターハイの東京予選の、さらに地域の予選のスタートラインについた時も、心臓が飛び出るかと言うほどどきどきした。何度か受けた受験の時なども緊張したものだ。最近でも何かの機会に、話しをしなければならなくなると、実に緊張をする。喋ると言う意味では、学校で教師をしていたので、ある程度は慣れたかと思う。それでも、緊張してしまうという性格は治らないものだ。近く自治会長として、熊野神社のお祭りをやらなければならない。その事を思うと、あれこれ心配だし、祭事となると間違いなく緊張してしまうだろう。それでも、一生懸命やらせてもらえば、何とかなるだろうと思うしかない。あの日から続いて起きた事は、何ともならない事だったのだ。

4年前のあの日は銀座の画廊にいた。大きな地震だとは思ったが、それほど深刻には考えていなかった。情報が無いという事は、極楽トンボである。そのまま、オープニングパーティーをして、帰ろうとして帰れなくなった。それから、帰宅困難者になったのだが、水彩人の仲間のおかげで、巨大なマンションの広いロビーに朝までいる事が出来た。不安はあったが少しも緊張はしなかった。何とかなると考えていた。そのときは、どれほど大きな地震であれ、やれる事をやるしかないと思っていた。怖いという感じもなかった。東北の情報が切れ切れに入ってきて、向こうでは大変なことが起きているらしい事は想像できた。家に連絡がついたのは朝になってだった。さぞや心配している事だろうと思ったが、こちらは暖炉の有る立派なソファーで寝ていた能天気だ。まだ原発が事故を起こしている等と言う事には思いが及ばなかった。原発は、既にのるかそるかの緊急事態が迫っていた。

あの日から4年がたった。原発事故という、あの妙な白々とした不安と緊張。地球滅亡の日が、あと数日に迫ったといういう、いや何も起きやしないという、訳の分からない、自分はただ受け入れる以外になと言う思考停止の中にいた。あの日の緊張は全く質が違った。視界が黄色みがかったような、無彩色になっていた。原発事故はどこか違う空間のはざまに、私を押し込めたようだ。4年経った。この日がある事は幸運の結果である。もし、あの時原子炉の崩壊から、格納プールの水が失われたとしたら。日本が壊滅に至っていたという想定も、無かったとは言えない。幸い、本当に偶然の想定外の事として、最悪の道に転げ落ちる事は無く、今日までの4年を迎えた。日本崩壊の危機を安倍政権は全く受け止めていない。自民党政調会長の女性議員は人も死ななかった小さな事故である。と認識を示した。戦後最悪の事故を正面から受け止められない人達が政治を動かしている。この事も緊張せざる得ない事だ。

原発が存在しているという不安の上に、暮らしている。この緊張さえできない、思考停止の何とも嫌な気分はなんなのだろう。緊張できるというのは、何とか乗り切れるのかもしれないという、可能性を感じるからだ。原子力発電所が存在しているという、表現することすら、感ずることすらできない、奇妙な感じはその後の4年間、通奏低音のように響いてくる。時に、高く鳴り響きまた消えたかと思うと、よみがえってくる。人類は自分で解決できない問題のある技術に踏み込んでしまった。これは文明の行方の問題だ。核廃棄物の処理が出来ないという、欠陥のある技術が広がってしまった。そして経済競争にしがみつく人達は、その底なしの技術を手放せなくなった。哀れなことである。あらゆる理由を並べて、処理できないなら、深い穴の底に埋め込もうなどと言う怖ろしい事を考えている。

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