裁判員裁判の無効
裁判員のだした「死刑」判決が認められず最高裁で3件目の無期刑の確定となった。裁判員制度は止めた方がいいと考えている。普通の人の感覚と、裁判官の判断が違っている。しかも、死刑と言う命にかかわる深刻な事態だ。この状況を直視しなければならない。判決にこうした矛盾が続くのであれば、裁判と言う物の信頼が揺らぐ事になる。犯罪を犯した者は、裁判員裁判は避けたいと考えるだろが、選択が出来る訳ではない。死刑になるとき、裁判員を恨む人もいるだろう。もしこれが普通の裁判で有ればと思う事もあるかもしれない。何故、裁判員の裁判が重罪になるかと言えば、普通の人は、被害者の心理に寄り添うからだ。誰しも、加害者の気持ちを想像するより、被害者であったらと考え、又残された遺族と同じような気持ちになる。訓練が無ければ、中間地点に立つことはできない。その為に、裁判員裁判は判決が重くなる。
加害者の人権に意識が向かう以上に、犯した罪の重さに押しつぶされるからだと思う。犯罪現場の死体の写真を見せられるような状況の中で、経験も訓練もない、普通の人が冷静な判断が出来るとは到底思えない。外科医が死体解剖から始まり、手術助手の経験を経て、手術を重ねることで、冷静に患者を物体として判断し、医療行為が正確に行えるようになる。私が、鶏をさばく事が出来るようになるには、何年もかかった。今でもやりたくはない。人間は血を見るとか、死と向かい合うと言う事が苦手の人もいる。私は自分が裁判員にもなりたくないし、裁判員裁判を受けたくもない。裁判員をやりたくない私の様な人間は裁判員を拒否するだろう。結果、まじめなで立派な、どちらかと言えば優等生的な人が、主流になるのだろう。ここにとても危惧する所がある。私の様なダメなやつの心情はなかなか理解してもらえないだろうと言う、経験知がある。
アメリカにも陪審員制度があると言う事が言われる。しかし、これは有罪か無罪かを判断するもので、量刑をうんぬんはしないと言う。裁判員は刑事事件だけを対象にする。しかし、検察審査会では、あらゆる事件を普通の人が裁判に取り上げるかどうかを決めている。小沢一郎氏はこれで政治家としては、将来を断たれたと言える。確かに、完全な裁判など無い。手付金詐欺の様な弁護士にも何人か遭遇した。優秀な弁護士のおかげで勝訴したという経験もある。裁判が絶対の事ではないのは当然のことで、裁判官の世界も出世主義で、でたらめがあるようだ。そういう訳のわからない中で、裁判員制度が突然行われた。この制度が裁判の公正さを実現するどころか。なんのためにこんなおかしな制度が継続されているのかさえ分からなくなっている。また、裁判員制度の廃止の声が湧いてこないマスコミにも驚く。
冤罪事件が繰り返し登場する。もし裁判員裁判で、冤罪の死刑が行われてしまった時、誰に責任があるのだろうか。冤罪が繰り返される原因は、警察の捜査にある。昨日の報道では、富山冤罪事件では警察の捜査に違法性があったという判決が出た。ここでも、警察が自白を無理やり引き出すという手法に、原因があった。捜査段階を含めて、あらゆる場面を可視化して記録しておく必要がある。人間は必ず間違いを犯す。その間違いを最小限に留める為には、第3者が後で確認できるようにしておく必要がある。村木さんが誤認逮捕された、障害者郵便制度悪用事件では、当主任検事であった前田敦彦が、証拠物件のフロッピーディスクを改ざんしたとして逮捕された。この事件後、捜査の段階からの可視化が議論されたが、結果は期待外れの物である。