農家の消滅
先日、ある地域で地域の再生の活動をしている人と話す機会があった。小田原の久野地域の農業事情などをお伝えしていたら、実は一番困っているのは、結婚しない農家が増えていると言う話だった。農家を一人でやると言うのは、不可能なことだと思う。後継者もいないだろうから、農家が消滅して行く。そういう事は、別に最近の事ではない。農家に跡取りが居なくなるという事は、50年前の山梨でもよくある話だった。農家の仕事は3K職場と言う事もあるし、因習的で自由がないという事が当時も言われていた。それから50年がたって、いよいよ農家消滅の時代である。田舎で育ったし、又今もそれに近い所に住んでいるので、地方消滅の話は当然過ぎて、今更の思いで聞いている。しかし、それを悪い事と考えている政府や行政とは、認識は違う。日本と言う国土に相応しい時代に向かっていると考えている。むしろ日本を立て直す材料になる。戦前の日本が、満蒙開拓や、移民政策をせざる得なかったのは、人口増加が根にある。
農家を維持してゆくには、一軒の農家の農地を分割する事が出来なかった。長男が相続して、他の兄弟姉妹は村を出てゆく以外に暮らしようがなかった。農業立国では耕作地の面積と人口は連動し、国土面積の限界がある。所が、戦後の社会は農業国から、工業国に移行して、農村人口は都会に移行して行く。さらに、出稼ぎや三ちゃん農業で、兼業農家が増加する。農業は年々日本の主力産業ではなくなった。2次3次産業で稼いだ金で、食糧は輸入すればいいだろう。こういう流れで戦後社会は変化してきた。その流れの結果、一次産業を中心にした地方社会は、衰退に向かっている。農村人口を都市人口に移行して行く事が、狭い国土に日本人が暮らしてゆく唯一つの道だと、考えられてきた。その方角の結果が地域と農家の消滅の時代である。本来であれば地方は人口が減少したのだから、充分に農業を行えばいい訳である。しかし、生活の在り方の方が変わっている。農業を選択する事が出来ないのが現実であろう。
農業には2つの方向がある。自給的農業と、プランテーション農業である。私がやりたいと考えている。又残さなければならないのは、自給農業と考えている。世界の商品としての農業で伍して行ける農地であれば、プランテーション農業をやればいい。しかし、環境的条件を考えれば、日本の維持すべき農耕地はプランテーション農業が成立する場所は、限られている。大半の農地が中山間地の狭く分散化した農地だ。そうした農地を守ることは、日本の自然環境の維持のためには、むしろ重要な場所になる。誰かに農地を継続してもらわなければ、日本の国土自体が崩壊して行く。とすれば、どうしても自給農業をやる以外に日本と言う国は維持できないのではないか。小さな1畝2畝の田んぼを守る意味は、お米の生産だけでなく、国土保全の意味合いが大きい。水と言うものを管理する事は国を制することだと、言われる。大きなダムを造る事より、自然に順応したやり方が水田である。
地方の人口が減少したのだから、中山間地は自給農業を推進すればいいのだ。その為には、自給農業をやりたい者が、やりたいようにできる環境整備である。別段やりたくない人間にやってもらう必要はない。自給的農業をやりたいという人間が、自給農業を始められる環境を整えることだ。放棄されている農地を国の管理下に置く。所有権の問題など、様々あるのだろうが、やりたい者にやってもらう基本的条件を作る。人間の暮らしとしては、中山間地の暮らしの方が面白い。暮らす事が出来るなら、やりたいと言う人がいないわけがない。三つの要件がある。農地の充分な利用条件。自給農業技術の伝承。教育や医療に対する自給思想の確立。食糧自給を一定比率の国民が行う事は、国家としての安定につながる。国土保全が、食糧の言って医療の確保にもつながる。コンクリートから人間へ投資の先を変える事だろう。