絵を描ける時はなにもない時

   

どうも絵をかける状態は、何もない静かな日常である。父は生涯和歌を作っていたのだが、戦争に行っていた時が一番出来たと言っていた。何もないからだというのだ。戦争状態の中に居る気持ちが少し伺えた。父は7年間中国の最前線の長沙と言う所まで行った自動車部隊に居た、下級の兵隊である。銃を撃ち合うような戦闘と言う物は殆ど体験しなかったという。物資の調達運搬をやっていたと思われる。中国語が話せた。中国人とも格別親しくなり、民俗学的な関心で中国を見ていたようだ。そういう毎日の中で、和歌が一番出来たという。戦争の生活は単調だからだと言っていた。戦後の追われる生活の中で、作れなくなった。70過ぎてから少しづつ作っていた。見せてもらったこともあるが、実に穏やかな自然描写だけの物で驚いた。本人から来る激しい印象とは、隔絶したものだった。創作と言う物の正体が、本人を表すものなのかどうかも難しい物だと思った。

何もないというのは、創作する心を煩わす物が何もないという事だろう。今、大相撲の終盤戦だが、幾ら相撲が好きだからと言って、誰が勝とうが絵とはいささかも関係が無い。将棋の羽生名人のファーンだが、タイトル戦で負けたからと言ってそれはそれである。しかし、原子力規制委員会が、海に1ベクレルの水を流すことを認めた。と言うような情報は気になり、絵を描く事に引っかかって来るようだ。気持ちが絵だけになるという状態が大切という事なのだろう。自治会長をやると言うようなことも、絵を描くには上手くない。あれをこうしてああして、等と言う事を時々思い出してしまうようでは、絵を描くにはダメなようだ。それが、戦争をやっているというようなどうにもならない中では、案外に創作に没頭できるという気持ちは想像できるようだ。田んぼをやる、畑を耕作するなどと言うのは、むしろ絵を描く事と相乗効果があるようで、絵の中に入り込みが深くなるような気がする。

絵の中に入り込むと言うのは、絵を描いている自覚的意識が遠のいた状態、と言うような感じだ。絵を描いているというより、風景を眺めているという感じだけで、意図が働かず、そのまま見ているという感じに近い。絵は意識の中で流れてゆくもので、その流れが静かに過ぎてゆくことをむしろ大切にする。ああしようとか、こうすればいいのではと言うような、意図的な意識は案外に持っていない。ただその絵にある流れを把握し、その流れが滞らないようにしている。だから、そんな事をした所で何になるのかと言う事になる。絵画することを生産の一種と考えれば、どこからどこまでも無意味な行為である。その無意味である事を、大事にしている行為である。多分そういう価値観に至ったのは、座禅の修業を少ししたためだと思う。座禅をするように絵を描こうといつの間にかしている。そうしたいと言うより、自分の絵に近づこうとしてきたら、こんな具合になったいた。

座禅では、結果を求めると言う事は悪い事になるとされる。悟りたいと言うような気持ちを、どう克服するかだと思っていた。ただ座禅をしている、そう有ればいい。しかし、その心境にいたれない俗物であるので、絵を描くと言う事にならざる得なかったのだと思っている。ある高僧が居なくなって、やっと見つかったら、名古屋で大工さんをしていたと言う話を聞いた事がある。そういう人間のあり方に憧れたようだ。結果を恐れず、日々是好日ということが、山本素雄さんという栃木の妙見寺住職の言葉にあった。多分絵を描くと言う事はそういう事だなと思った。一日良い日を送ると言う為に、絵を描く。良い暮らしをする日常に、絵を描くと言う事が必要と言う事だろう。毎日座禅をするというのも良いのだろう。しかし、絵という行為が確認できる物がないと、耐えがたい。というのが私の気持ちで、あさましい者ではある。

 - 水彩画