色彩について
以下は、絵を描いているときにブツブツ考えている自問である。
美しい色と言うものがある。自然界の色は大抵の場合美しい。それを感じるかどうかは、また別ではあるが。純粋に色彩と言う切り口としてみれば、どんな色も美しいと考えていいのではないか。美しく色を考える為には、美しいという意味を深く考えてみる必要がある。美しいという感覚は、美味しそうという事なのではないか。食べられそうな豊かな感じが美しいという感覚の基本ではなかろうか。自分の命が生きてゆける環境の色彩が、安心出来るいろ。腐ったようなきたない色や、毒々しくて危険な色合い。食べると危険という信号の様な色。そうした例外を除いて、大抵の色彩は美しい豊かさを含んでいる。自分が生きて行く事が出来る環境の色彩は、美しく見えるように出来ている気がする。多分夕陽を見て美しいと感じるような、自然の荘厳さを感じると言う人間だけが感じる物は、何万年も前から人類は感じたのだと思う。そうした自然界の美しさと絵画の美の観念はどう関係しているのかである。
具体的に考えようとしても、どこまで行っても色彩の美と言う物は観念的なものなのだと思う。純粋に自然界の色だけ取り上げればどんな部分も美く感じる。写生をしているとこれに圧倒される。無限大の大きさの中で、色を見ているからなのだと思う。無限の空間の中に於けば、巨大な物の一部であれば、おおよその色は美しい色になる。美しいという事は、大きさや周囲との関係が大きく作用している。自然界と言う無限に大きな物の中では大抵の色が調和してしまう。その事は、逆に言えば、画面と言う小さな範囲の中で色を見ると言う事は、全く違う意味になる、と言う事なのではないか。画面では大抵の場合は、色は美しくないのである。この作られた画面空間で色を美しく感じると言う事は、人それぞれの観念である。一般的に美しい色彩の絵、という考え方は私には意味が無い。私自身が何故この組み合わせにした時に美しいと思うのかという、特殊な状況に意味があるのだと思う。勿論そうした美しさには、人間であれば共通性はあるが、共通性を考えてみる事より、自分の奥にある美の感覚を探りたいと考えている。
色彩を色見本として取り上げれば、絵具の色など、自然界の色に比べて実によくない物だ。自然界ではどんな草の葉だって、間違って伸びている物はない。と言った人がいた。色も同じことだ。所が絵の中に置かれた人為的な色彩は、人間の意図が加わってしまい、その意図と言う物は、見苦しいものである。色は意図を伴って画面では存在するのだから、その意図は煩わしいものになる。画面で色が調和して見えることがある言う事は、まれな組み合わせなのではないか。調和するという意味での美しいという言葉はこの場合、自然界の美しさとは別物である。作者の意図が伝わり、感じられるという意味合いが強い。画面での色は意味を伴う。この色が意図を伴うと言う事は、物の意味と色彩の関係が煩わしい事になる。松の木を描けば、松の木のような形が、ただの純粋の線や形から、意味を伴う。松の木を描くときには、松の木を描いているというより、そこに欲しい線や形を描いている意識の方が強い。しかし、それは松の木と言う意味も伴っている。
色も同じで、花の色だと思って描くと言うより、黄色の色をそこに於きたいという気持ちで置く。だからその黄色は、月の色と言う意味に変わっても良いし、夜の海を飛び去る鳥と言う事でも良い。その暗い空間に黄色の色が欲しいと思う事は、意味を伴うと言うより、そういう頭の中に湧く想念の様なものだ。それは眼前の風景を見ながら起こす想念である。目の前にある松の木を見て、松を描いてはいるのだが、画面に於いて描くときはあくまで、そういう線がそこに必要でそこに置く。見ているという事と、画面を作っているという事が、行きつ戻りつしながら、画面と言う世界に自分の想念が煮詰まってゆく。この煮詰まる過程は、川柳を作っている感じと、よく似ている。ある面白さが言葉を操作している間に突然、明確になる感じだ。かなり日日の絵を描くときの感じは、文章で再現できたと思うが、いつか読んだ時にどう読むのだろうか。