全農改革案

   

佐渡 中盤全紙 この絵は20年ほど前のものである。佐渡で描いたときに少し自分の絵の方向が見えてきた。その後また見えなくなったのだが。

全国農業協同組合中央会は6日、自己改革案を発表した。農協では、農協を解体しようとしている人達を、市場原理主義者と呼ぶらしい。安倍政権は確かに市場原理主義を貫こうとしている。国際市場における競争原理を徹底することを、農業の方向としている。しかし、この市場原理というものは強者の論理であって、農業画自然条件に支配されているという事を忘れてはならない。世界は市場原理主義によって、格差の拡大に向かっている。イスラム圏諸国や中国が少し異なる市場原理を主張しているともいえる。韓国は日本より一足先に、徹底した市場原理で勝ち抜こうと、政策を取り始めた。日本も後追いをして、規制緩和とか、市場原理導入とかいう、目標に向けて安倍政権は進んでいるのだろう。そうしなければ、世界の競争に勝てない。と市場原理主義者であれば考えるのも当然のことであろう。市場原理主義と、政府の農協に対して打ち出している、規制緩和政策との関係を考えてみる。

農業分野に存在する様々な規制の象徴が農協である。あるいは農業委員会制度である。本来、生産者の共同出荷する組織が農協である。農協であって、株式会社でないから、共同出荷という価格調整を行うことができる。独禁法から除外される。それは、農協という組織が利益を目的とした組織ではなく、生産している農家が互いの営農を守るために、共同出荷するための共同組織だからだ。この仕組みを利用して、保険や不動産業、そして銀行業務にまで、範囲を広げている。私は農協の正会員であり、運営委員という役も2年やらしてもらった。それで、少しは農協の様子が分る。農協は必要だと思う。必要ではあるが、現状から大きく変わらない限り、市場原理に従わざる得ない存在でもある。今のままでは既得権を死守する組織に見られる。農業者の組合は間違いなく必要である。しかし、農協の存在意義が変わってきているのも事実である。米価維持とか、減反政策とか。こういうものが農協自体を共同出荷の本質から変えた。市場原理主義に対抗する農協の思想は、農家の共同のはずだ。これを失ってはならない。

果たして現在の農協は共同の名に値する組織であるかは疑問だ。その為に市場原理主義に対抗できないのではないか。農協は共同の原点に戻るべきだ。市場原理主義に繋がる、利益や利潤ではなく、農家の暮らしを守るための共同の原点に戻るべきなのだ。アメリカ式の民主主義ではなく、江戸時代の民主主義である。江戸時代には民主主義など全くなかったと思われているが。江戸時代には江戸時代特有の日本式村落の民主主義が存在した。納得が行くまでの話し合いである。一つのことを決めるのに、泊まり込みで話し合いを持つ。納得が行くまでの合意がなければ、農村共同体ではうまく行かないからである。それが日本の現状は形式民主主義になっている。しかも、その共同体は、祖先から自分が受け継ぎ、未来の子孫の繋がるものなのだ。単なる封建主義では済まない、農村の生産者としての共同体意識が存在した。農協はこの江戸時代の徹底した合議主義をもう一度思い起こすべきだ。現在の農協の話し合いは、組合員という立場に立つと、形式主義化している事を痛感した。

私が運営委員の時に農協はTPP反対を決議して、署名活動を展開した。確かに組合員全員が署名をしてくれた。しかし、組合員全員のTPPに関する話し合いが行われた訳でもない。確かにみなさん企業に勤めている。TPP賛成の人も多い感じだった。しかし、一応は農協の署名にも参加しておくという気分を感じた。農協の正会員といっても、西湘農協の大半の人が共同出荷をしていない。お米でも積極的な人は直売など模索している。農協出しは価格的に不利になる。ミカンの産地が衰退して行く過程で、共同出荷体制が崩れた様だ。農協が営農的に共同出荷して有利な状態を作り出さなければ、農協が形骸化して行くのもやむ得ないことだろう。それでも多くの人が、地域というものを大切に考え、農協が地域ごとの営農組合の基盤にあるという意識がある。だから、少し考えが違っても農協の要請に答えているのだろう。今回の改革案も、上からの案であって、組合員からの積み上げは全くなされていない。この実態が変わらなければ、農協は失われてゆく運命にある。

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