ふしぎな岬の物語
富戸港 中盤全紙 写真がひどくて残念。もう少しましな絵ではあるのだが。漁港の揺れるマストである。
映画を見に行った。コロナの湯の2階に映画館があり、映画を見てお風呂に入るという一日は、又とない楽しみだ。そういうセット券があるのだ。その上昨日は床屋さんにも行った。よい午後を過ごした。映画は、モントリオール映画祭で受賞した「ふしぎな岬の物語」吉永小百合主演プロジュースで評判な映画だ。監督は成島出氏である。同じ出なので、名前だけは「八月の蝉」で前から知っていた。見ようかと思いながら見なかった作品だ。ふしぎな岬は私が良く絵を描くような場所の映画である。しかも冒頭から幽霊の絵描きが出てくる。吉永小百合ふんする主人公の、若く亡くったご主人とその絵画が、話を繋いでいる。残念ながら、その岬と虹の絵は今一つのものなのだが。映画よりも、自分の絵の行く先の事を思い浮かべてしまった。私が死んだら私の絵は困るだろうという事だ。誰かの記憶の中にだけでも残る事があれば、それだけで充分である。そのように虹の絵は消える。
吉永小百合さんは子供のころ見た、「キューポラのある街」以来である。確かにテレビでは時々見ているのだが、思い起こせば映画館で見るのは、二回目にすぎない。この映画をプロジュースしたという事だが、確かご主人は著名なプロジューサーだったはずだから、そういう仕事には精通しているのだろう。実に手際が良く出来ていた。配役や、設定がとても良い。テーマは人のつながりという事だろう。日本人的な人の支え合いのようなものが、味わい深く沁み入ってきた。成島監督という人の感性は、映像詩的に素晴らしいものがある。場面場面の詩情が行き渡っていて、その組み合わせというか、連続の仕方が連歌のようで手際がいい。丁寧な作りが当たり前の情景を、格別なものにする。この映画が撮影されたという当たりも、何度か絵を描きに行っている。ごくありふれた日本の海岸である。そのありふれているという事が、とても大切なテーマになっている。普通の暮らしにある、特別に大切なこと。
この映画は現代の無法松である。阿部寛演ずる女主人公の前科者の甥の、純情である。無法松が何故憧れの女性に、生涯をささげてしまうのか。今回初めて知った事だが阿部寛は素晴らしい俳優だ。この難役を見事にこなしている。単純で、素朴でありながら、奥深い所にある、存在の傷のようなものをかすかに、大げさでなく感じさせている。見てはいないのだが、「テルマエロマエ」を踏まえてここまで進んだのだろうと想像する。吉永小百合映画というのはあるのだと思う。それである程度客を呼べる。だから、そう写さなければならないような画面がいくつも出てくる。ところが、後に甥と結婚する事になる。竹内結子演ずるよくありがちな漁師まちの出戻り娘が、その華やかな若さで、吉永を圧倒している。この対比が伏線というか、人間の連なり行く生命観として意識されている。人間の生命の不思議。最後に二人に子供が出来たという事で、めでたしめでたし。そこで要らないナレーションが入るのだが、それは蛇足だろう。
喫茶店なので、コーヒーを入れる。そのコーヒーの入れ方に、とびきりの気持ちを込める。茶道のようなもの。毎朝、湧水を丁寧に汲みに行く。私と同じだ。同じコーヒーでも湧き水で入れれば違う。生きた水を使う意味。そして、美味しいという以上のものがそこにある。丁寧に日々を生きるという事。こうした思いを共感できるという事。私は生きた水で、田んぼを作り、そのお米を食べる。そいう全体の事を考えている。それは実は水道水でも、何ら変わりがあるわけではなく、美味しくなーれというその魔法のこころこそ大切。一日を充分に生きそして死んでゆく世界。しかし、コロナの映画館にはお客さんが一人も居なかった。一人もである。こんなに良い映画に観客が居ないとは全く不思議なことだ。一人もいない客席に座るというのはさすがに初めてのことだった。