失敗は進歩の一歩
明神岳の見える畑 中盤全紙 ファブリアーノ 畑があり、里山がある。今は里地里山と呼ぶようだ。人の暮らしが自然になじんでいる所を描きたい。
田んぼをやっていると、日々失敗である。ああしなければ良かったということは、毎日である。良かった事と同じくらい、失敗がある。それでも田んぼをやって、25年必ず収穫にたどり着くたのだから、自然と言うものは一度や二度の失敗を許さないものではない。大らかに受け入れる力のあるものだ。では何でも許されるのかと言うと、やはり、自然には最善の摂理があり、絶対的な拒絶も起こる。自然の摂理を探すために、田んぼをやっていると言ってもよいくらだ。今年も一部イモチと思われる病気が出ている。何故なのかが分らない。雨が降ると思って行った対策が、雨が降らずに裏目に出る。何故、雨も降らないのに、水路を閉めたのだ。こう責めるのが人間である。失敗を許さないということは、大切ではある。しかし、さらに大切なことは、何故雨が読めなかったのかという反省である。それで天気判断の精度を上げることができれば、一歩前進に成る。この積み上げを、身体が身につけることを目指す。自然の変動に対する読みの力は、稲の生長の読みにもつながる。
大体のことで自分の行為が成功しているのか、失敗しているのかも分らないものなのだ。失敗が分る為には、どういう水管理が良いかを知っているということになる。これはもう神業である。大体明日の天気すら分からないのに、稲の望みがどういうものかを分るというのはよほどのことだ。実は水を閉じるのが良しが70%の成功、水を閉じなくても良しと言うのが80%の成功。自然の摂理はこのくらいの差の積み重ねと思わなくてはならない。このわずかの差の中に、最善を目指して、総合点での高得点を選択する。しかも採点基準も多様で相反するものさえある。すべての結果として収量と言うものがある。美味しいというのもある。健康に良いというのもある。お米に力があるというのや、病気を治すというのまである。要するに採点基準すら大きく違うのだから、成功も、失敗もそう簡単には見えない。それでも、自然と言うものを深く深く探ってゆくと、自然の法則と言う一貫した構造が見えてくると考えている。だからこそ、自然のもたらす最高点を目指すことは面白い。
戦争に敗れたという失敗には、責任者がいた。この敗戦の責任を負う人間を神としてお祭りしようと言う人すらいるのだから、大きすぎる失敗は見えなくなるものらしい。原発事故の場合、誰がどう悪かったために、こういう事故が起きたのかが明確にならなければ進歩が無い。科学の大きすぎる仕組みの中に、責任が隠れてゆく。こうして世界のどこかで原発事故はまた起こる。経済の為の原発再稼動を急ぎ過ぎるあまり、行き詰まる汚染水処理の現状ですら、完全にコントロールされていると、断言してしまうのが、日本の総理大臣である。今度の小渕大臣おおよそコントロールされているとの発言だ。その経済の為も、目先すぎる経済のことで、将来汚染物質が莫大な付けに成ることすら、見ようともしない。それは失敗をわずかでも許さないという、おかしな潔癖主義が事故隠しという裏目に出ている気がする。新潟地震の際の、柏崎刈谷の原発事故で、事故原因に向かい合っていれば、福島第一事故は起こらなかった可能性がある。
失敗は誰にもある。人間の生涯は失敗の連なりかもしれない。その失敗の受け止め方しだいで生き方が前向きに成る。失敗の繰り返しの中で前向きに生きて行けるのは、ダメでもいじゃんと緩やかに考え、失敗に向かい合い、次には何とかしようと考えるからだ。そう思えば、失敗が大きな進歩のシグナルであることに気付く。私の養鶏は、卵に表れる失敗を、一つづつ考察して、総合的によりよい自然養鶏を目指した。その基準となる考え方は、「良い卵とは、生命力の強い卵である。」生命力の強いとは、何日置いておいて、孵化できるかで判断した。70日まで常温で置いておいても孵化できる卵になった。求めるものが明確であれば、失敗というものがいかに、重要な指摘であるかに気付く。一つのことが分ることはすべてが分ることでもある。その一つの事の分り方が、自然の摂理に繋がるという、分り方であるということが大切なのだろう。