「アナと雪の女王」の人気が信じがたい
蔵王 10号 蔵王は雪の状態で印象が変わる山だ。東北の雪解けは自然そのものが目覚めてくるような新鮮さがある。
デズニーアニメの「アナと雪の女王」という映画が大ヒットだそうだ。アニメーション映画というものを見たのは、白蛇伝以来ないので、良し悪しはよく分らないが、絵として見た時にあの絵柄は、耐え難いものがある。あの滑っとした調子は、不快なものである。あののっぺりした調子は、リアルさ加減に失敗がある。絵というものは、置き換えるという操作なのだ。置き替え方にその作者の考え方が出る。江戸時代の人は、西洋画の顔の影を汚れと感じたそうだ。デズニ―アニメはあの不気味な絵柄にもかかわらず、若い人たちには相当の人気である。私の感覚が現代的感覚として、おかしいということになるのだろう。このことには深い理由がある。戦後の子供達であれば、白土三平氏の荒いタッチに惹きつけられた。粗悪なざら紙に印刷された、白黒の荒い調子の中に、生活感を合わせるような空気が、実在感を呼び覚ました。その後でいえば、ちばてつや氏の明日のジョーの図柄が、全共闘世代である。深刻なドブの匂いを漂わせる絵の調子に病みつきになった。
最近の日本のジブリアニメはいわさきちひろの系譜だ。淡い色調の曖昧に突き詰めない表面性という感じがある。これは少女マンガのジャンルだ。小さな女の子を描くという姿勢に、いわさきちひろの何かがある。ジブリアニメの絵柄には、そうしたノスタルジーというような、オブラートにくるんだ世界観。あるいは、曇りガラスに映る幻視の世界。水彩画として見たときには、とても美しい調子で、良質な絵だとは思うが、物の表面しか見ていない物足りなさの様なものが出てくる。すべての物に、表があり裏がある。真実はその複雑なものを引くっくるめて、表現しなくてはならない。それが絵というものだと思っている。この現実の複雑さを避けて、情緒で一面の良さだけをすくい取れば、物事の複雑な奥にある世界という物に迫ることができない。良質な印象は受けるが、どこか嘘っぽい気がする。控えめということが、物事の本質を曖昧に暗示するにとどめることになる。曖昧であるから、突き詰めないから、比較的多くの人に受け入れられるということがある。
一方、内容は知らないが、デズニ―の図柄の強引な決めつけは、論理性と結論を出すという姿勢を感じる。日本人に受け入れられているということは、日本人の美的感性が変わってきていることを表しているように思う。簡単にいえば、結論は暗示するというような、奥深さが失われている可能性がある。強引に示さなければ、分らない、阿吽の呼吸のない世界観。含みのない世界。余韻とか、しみじみというような物の対極の世界を感ずるのだ。たがいに分り合える日本人的な、曖昧な了解が終わりを告げている。特に子供たちにはそういうことなのだろう。考えてみれば当然のことだ。世界が経済優先で即物的になっている。その意味で、絵画いというもより、アニメーションの方が良いのだろう。絵画であれば、理解するには努力がいる。見るということに能力が要求される。一定の知性と感性がなければ見ることすらできない。ピカソが分らないというレベルではなく。静止した絵というものから感じ取るという能力が失われてきている。
見る能力というものは、努力と鍛錬なしには、獲得できるものではない。何でも探偵団では、「いい仕事してますな~」と中島氏が唸る。おもちゃのきたはら氏が「この箱がある所」などと蘊蓄を語る。絵画芸術を味わうには文化の蓄積が必要なのだ。絵画はある意味時代の文化レベルを反映している。自分の目というものを獲得しない限り、本物を味わう喜びを知ることができない。例えて言えば、梅原の絵の素晴らしさは自分以外には、理解しがたいだろう。こういう孤独感を伴うような、実に狭く深いわずかな可能性の世界なのではないだろうか。大衆性と全く対極にあるかのような美の世界。アナと雪の女王のヒットは、全く理解しがたい事でびっくりしたが、時代が変わったということを気付かなければならない。私の水彩画など、どこかにこぼれおち、未来永劫共感を得ることが無いような気がしてきた。まあそれでいいのだが。