カジノ反対の理由
桜 4号 短冊形とか、掛け軸の形とか、西洋画にはあまり見ない縦長の構図だ。装飾性が強く成る気がする。床の間という場所があり、そこに収まるという形なのだろう。
カジノ推進議連というものがあり、超党派で法案を提出している。前の国会では継続審議に成ったが、次の国会でではほぼカジノ法案は通過する見込みである。カジノには反対であるが、その理由を整理してみる。賭博というものは人間の本生の一つである。しかし、倫理的な問題として、あぶく銭で暮らそうということを悪としてきた。勤勉や倹約の倫理を壊しかねないという所にある。ここでも創価学会が、カジノ法案に賛成するという、驚くべき行動を取りそうである。大王製紙の御曹司社長のように、他ではしっかりした人間でも賭博によって身を滅ぼすという事例は後を絶たない。それくらい人間を引き付ける魔力の様なものが賭博にはある。儲けたいという気持ちと同時に、賭博というスリル感にハマリ込むという依存症的なことがある。勝負事は、賭博でなくてもスポーツでも勝負をかけたときの、高揚感は、刺激的な高まりがある。人間の勝ち負けに伴う、本能は抜きがたいものがあるのだろう。たぶん、動物時代の尻尾がそこにあるということだ。
麻雀という少し複雑な勝負事でもその技量というだけでなく、運というようなゲーム性が、賭けごとに繋がっていくる。囲碁であれば、純粋な頭脳ゲームとして楽しむ人も多いと思うが、これがサイコロの目だけで争うものなら、掛けてあるものの価値の方で、高まる緊張感を作り出し、楽しむということになる。競輪や競馬、競艇などの場合、他の人が勝負している、勝者を当てて、自分の推理力の優劣を争うことになる。この場合も、推理力だけなので、当てた時の見返りがなければ、熱中が出来ない。日本で一番盛ん博打であるパチンコの場合、これも技量よりも運の要素が大きい。機種を選ぶ目という段階では読みがあるが、玉のはじき方の優劣など小さな要素になる。最近はこれがスロットマシンに変わり始めている。パチンコは実際には現金をかけて賭博をしている。しかし、これには現金は掛けられていないという脱法の抜け道が用意されている。
賭け事という意味では、株というものがある。頭脳で読む訳だが、読み切れない要素があってここに賭博性が生じる。上がる銘柄を当てるということが、賭け事化している。普通の株取引では、賭博性が物足りないということで、はまり込めば、先物取引ということになる。商品相場というものもある。相場で儲けるという精神は、ほとんど賭博である。すでに、競輪、競馬、競艇の公営賭博というものが、下火になってきている。それに代わる様にロト6の様な、賭博が広がり始めている。人間のどうしようもない、儲けたいという欲望は尽きない。カジノ法案ではどうも公営カジノではないようだ。これには外国のカジノの進出などということも自由化されるのだろうか。あるいは、国内のパチンコ業者などが、カジノに進出するのだろうか。暴力団がすでに闇カジノを運営しているらしいから、こういう人たちがカジノを仕切るということも出てくるのだろうか。こんな不健全な違法行為が、合法化されるということは、政治の劣化以外の何物でもない。
もう日本の社会は、博打で充満している。これ以上増やす必要が見当たらない。むしろいくらかでも減らす努力をするべきだろう。カジノを作れば、経済の活性化に成るなどというらしい。どうせカジノの儲けは一部の人間の利権に成ることは目に見えている。その為に現在の違法の枠を取り払おう、というのだ。カジノ議員連盟の人達には、見返りが約束されている可能性もある。これは脱法ハーブや合成麻薬を合法化するのと何ら変わりがない。合成麻薬でも、将来体に影響の少ないものが出てくる。その時倫理以外で取り締まることはできない。安倍政権なら、経済の活性化になると言って、認めるのか。賭博の様な不健全なものから、どうやって人間が抜け出せるかが、人間の文化の進歩であるはずだ。。どうしてもやりたい人間は、シンガポールでも、マカオでも行ってやればいい。ラスベガスも良いだろう。日本で今更賭博を増やすことだけは避けてもらいたいものだ。