羽生の頭脳を見に行った。
塩山桃源郷 10号 この美しさを知ることができた幸せ。人間が作り出した美しい空間。
一度天才というものを見てみたいと思っていたので、将棋の羽生善治氏の講演を聞きに行った。リンクしたものはTEDトウキョウでの講演である。TEDについては又ほかの機会に書いてみたい。羽生善治を見に行ったのは、東京調布にある、電通大というところだ。電気通信と言うと、ちょっと名前が古い感じがするが、電気というだけで、ああわからないという気持ちになる。加えて通信となると、距離がさらに開く。家を7時50分のバスで出て、調布の会場には10時に着いた。調布というところも始めてのようなもので、きょろきょろしてたどり着いた。なんでこんなところまで来たのかというところだが、結局羽生ファーンなのだ。羽生氏は将棋界では最初に、コンピューター将棋は人間を追い越すということを予言した人だ。他にも思っていた人はいただろうが、プロの将棋指しはそういう不都合なことを、口にしないものなのだ。電通大と協力して、将棋を指す時の脳の働き方の分析にも協力をしている。
羽生善治氏がどのくらい強いかというと、プロ将棋指しの勝負のなかで、現在1284勝491負ということだ。ほぼ力は同じくらいのはずのプロの将棋指し同士の勝負でこれほど勝つというのは、けた外れに強いということ以外考えられない。当然ながら、すべてのプロ棋士が羽生将棋を研究し力を高めている。羽生善治氏に勝つことを目標に将棋をしている。そうしなければタイトルが取れないのだ。しかも最も研究対象になっている苦しい立場でありながら、4回のうち3回勝ってしまうぐらい強いのだ。その人が、コンピューター将棋というものをどのように考えているのかについては、とても興味があった。人工頭脳というものが、人間社会に対して、どういう影響を持っているのかに対して、何かヒントがあるような気がした。一番興味を持ったのは、コンピューター将棋が停滞した時期と、その打開についての意見であった。人間とやはり機械は違うと言っていた。
人間の能力を開発するためには、ゲームというもので頭脳を鍛えることは、有効だと思う。しかし、そのゲームが優れたものでない限り人間の能力をむしろ、限定したものにしてしまう。将棋というゲームで重要なことは、自分の指した手に対して、相手がどうさすかを想定する能力を養うということになる。将棋というゲームは勝因というより、敗因が普通である。こんな良い手をさしたから勝ったというより、ここに失敗があったから負けたということが、大きな要素になる。つまり、勝因の裏にある敗因こそ、研究の対象に成る。その為に、勝負が終わると、必ず検討というものが行われる。その時多くの棋士が敗因や失敗を口にする。相手の手が想像できなかったことに対する、残念な理由を問題にする。何故間違えたのかは、人間的なことが良くある。ここに人間というものの意味がある。人間は必ず失敗をする。
すべては機会である。機会が与えられるということだ。機会は与えられるのであって、獲得するものではない。人間が生きるということは、一瞬、一瞬という時間を与えられ続けているということだ。それが終わる時が死だ。時は過ぎてゆくが、新たに与えられる。この幸運を充分に生かす道が、読みである。稲を見て、次の姿を読む。稲を見る機会は与えられたもの。目に映るものを見る。立ち止まり、よく見る。見るということはその場面を静止させるということ。留まり、時間を止めて、深く味わい見る。そのことから見えていることの、まれに見る幸運を知ることになる。この一瞬を見ることができるならば、また次の一瞬を見れることになる。その次の一瞬の為に、私というものが行動する。絵であれば一筆を入れる。絵を描くということはこうして、生きるという意味を確かめてゆくことになる。将棋からそういうことを学んだ。