調査捕鯨の違法認定
伊豆海岸 10号 手前に小さな港がある。ここは何度か描いた。つい最近も描き始めているが、だいぶ違った絵に成っている。
調査捕鯨が、商業捕鯨であるという判決が、国際司法裁判所で出た。至極当然の判決である。こうなるから、早く自分で判断して辞めるべきだった。そのことはこのブログでも書いた。捕鯨が食文化という意味で、正しい行為であるのか、間違った行為であるのか。という問題ではない。調査が必要な科学調査に成っているのかという問題だ。年間、1035頭ものクジラを取って食べている現実を、調査であると言い張ることに問題がある。世界の常識と日本の常識にずれがあることを知らなければならない。しかし、遅きに失したとはいえ、判決に従うと、潔く認めたことは正しい判断である。この機会に南極洋だけでなく太平洋での調査捕鯨も止めるということで、日本の姿勢を示すべきだ。もしどうしても資源の保護や環境バランスの維持の為に、科学的な調査が必要であると考えるなら、ITタグを装着するとか、殺さないで行える調査をまず日本が先頭を切って行う必要がある。その長期間のデーターに基づいて、どうしても捕獲して調べざる得ないことがあるなら、許可を得たうえの捕獲は在り得る。
もう一つの角度からこの問題を考えるならば、クジラを食することは日本の伝統的食文化という主張がある。農水大臣はクジラは日本人の大切な食料であると発言した。こんな発言をするようなトンチンカンでは、裁判で勝てるわけがない。近頃世界遺産に成った和食というものがどういうところから出来上がったのかを考えてみる必要がある。「地場・旬・自給」で自然発生的に生まれてきた食の伝統が、日本の各地域に存在する。その地域で取れる食材が基本だ。なくなれば困るから、山菜の採取のように、上手に残しながら食べ、また狭い耕地を生かしながら、作れるものを工夫して多様な食事を生んだ。来年の準備を含めながら、山から海までを考えた、自然の中に人間の暮らしを溶け込ませるように生きてきた食事だ。そうした総合性の中で出来上がったものが、和食という洗練された食事を生んだ。これは日本の豊かな風土の結果なのだ。ところが、現代の日本人の貪欲さは、世界の海を自分の海として、捕り尽くしてしまうような狼藉を働いている。これは、どこの国からも喜ばれるような行為ではない。マグロでも、うなぎでも食べつくしてしまうような、日本のやり方に対して、食文化であるからと認めていたら、資源の保護はできない。
日本の食文化は、4つ足を食べないという仏教的な教えが一般的であった。つまり牛や豚は食べなかったのだ。現代の鯨食をする人達が、この日本の家畜を食べない伝統を守った上で、クジラを食べるというなら、なかなかなものだと思うが、都合よく何でも食べてしまい。クジラも好きだから食べたいというような、飽食の食文化である。食文化とは到底名ずけられない、悪弊といった方がいいようなことだ。クジラを愛する人たちにしてみたら、少しも説得力がない。そもそも、和食という伝統料理が、世界文化遺産に成ったとしたら、この伝統文化の本当の意味を、暮らしの中で再考察すべきだ。肉を食べるなどということは、そもそもない訳である。何もベジタリアンがいいというのではない。何でも食べるのはいいが、地場・旬・自給という中で、育った食の文化が和食である。そのことの本質を考えれば、クジラ料理などは、沿岸でクジラが捕れた時の、特定地域の特殊な料理に過ぎない。
子供の頃、僧侶として育った祖父は、肉は食べれなかったし、卵もダメだった。時に猪肉など貰うことがあると、少しだけ食べた。食べれない訳ではないらしいと思った。お客さんが来たときに、鶏を潰して鶏鍋にすることはあった。鯉を取って鯉こく、鯉のあらいというものも食べた。赤ヒキガエル、沢ガニ、タニシ、蜂の子、クリムシ、あらゆるそこにあるものを美味しく頂いた。では貧しい食事であったかと言えば、そうは思わない。ありとあらゆる努力を食べ物に注いでいた。豊かに自給する暮らしだった。魚を食べること自体が珍しく、棒だらと、塩の塊のような塩鮭が買ってあり、それを食べる位だったが、多様な野菜があり、特に豆の類は、一年中食べていた。それが日本の多くの山村地域、伝統的な食事であったはずだ。遠くの南極海のクジラは、日本の食糧ではない。