憲法解釈変更の疑問
伊豆東海岸 10号 良く描きに行く。素晴らしい眺めである。その素晴らしさは、人間の営みの作った風景というところにあると思っている。風景を美しく変えるような、暮らしの姿。現代文明はどれほどの風景を壊しているのだろうか。送電線が風景をでたらめにしていることが良くある。
安倍総理大臣は憲法の解釈を変えようとしている。集団的自衛権を海外派兵可能な範囲まで広げようとしている。この人のやり方はずるい印象がする。国家の運営は正々堂々としていなければならない。最初は、新憲法を作る、まるで革命を主張していた。その内、それが難しいとなると、9条や前文にある平和主義の改定を目指した。それも難しいとなると、96条の3分の2条項を過半数で憲法改定が出来るように主張した。ところがこれもさすがに評判が悪く、不可能そうだとなると、今度は内閣の判断で出来る、憲法の解釈を変えて済まそうとしている。これほど、転がり続ける総理大臣はかつ存在しなかった。内閣の解釈変更で、自衛隊の海外派兵が可能になるようでは、憲法を定めている意味がなくなる。憲法は絶対のものとして、出来る限り動かさない方が良い。どうしても動かしたいとすれば、国会での3分の2の賛成を得る位の、手順が必要なことだ。国民は憲法に従って国の運営を、内閣にお願いしている。憲法をしっかりと守れば、クリミヤのような国民投票はあり得ない。
現在の選挙制度では国民の3分の1しか支持されていない自民党が、絶対過半数の議員数である。小選挙区制に於いて、公明党という半宗教組織を自民党議員が支持母体にしているからである。公明党の議員数の問題ではないのだ。公明票がなければ、自民党議員は半減する可能性もあるのだ。それが小選挙区制の悪い側面だ。公明党が民主党とくっついた場合、どういうことになるか。公明党は考えが違う政党とも、都合によってくっつくことが出来る政党なのだ。公明党としては、コウモリ党に成る以外、延命が出来ないということで、やはり苦渋の選択なのであろう。ともかく、結果として、国会議員の過半数で憲法改定の発案が出来るようになれば、公明党が憲法改定の鍵を握る。日本国の政治原理はぐずぐずのものに成ってしまう。奥の手による、小松法制局長官の解釈の変更である。安倍氏のやり方は、周辺人事で国の方向を変えてゆく。解釈の変更を主張してきた小松氏を外交関係から無理に任命したのだ。
そして、国会で答弁したように、憲法解釈の責任は、総理大臣たる自分が選挙で審判を受けるのだから、自分の責任で憲法解釈を変えられるのだと、国会と国会議員の存在を無視したような発言をした。こんな入れ知恵を誰がしたのだろう。自分の判断という気がしない。自衛隊の海外派兵をこんな簡単なやり方で可能にしては成らない。議会制民主主義というものの意味を理解していない総理大臣であり、これは失言というような種類のことではない。このままでは自分の存在に独裁権があるとでも解釈している恐ろしい人となる。一連の発言を自民党の長老の古賀氏がお坊ちゃん政治家と批判していたが、その理由が驚くべきもので、総理大臣は国民が分らないようにやるべきだというのだから、自民党には驚く。集団的自衛権の解釈を変更して、何をしようとしているかである。たぶんアメリカからの圧力があるのだろうが、同時に、武力的国家に成らないと、中国に負けるという意識もあるのだろう。
中国には原爆がある。軍事力の対抗ということなら、核武装まで行かなければならない。そういう軍事的な力しか、均衡が保たれないとしたら、人類はどこかで必ず滅亡する。不安がかなり現実的に成りつつある。日本国憲法の示す、平和主義は理想主義的ではあるが、対立より、友好によって、平和を模索するという道も必ずある。又見つけなければ人類に未来はない。日本国憲法は現実的ではないと言われ続けてきたが、軍事力バランスによる平和も、これまた現実的ではないことが見えてきている。どの道を選ぶとしても、平和への道は大変困難な道である。まず、日本政府は憲法で定められた、平和主義の努力をすることだ。現実にウクライナに対して、平和主義では何をする必要があるのか。そのためには、中途半端な軍事力など、百害あって一利なしだ。徹底した日本的平和主義の道を世界にアピールできるように、政府こそ模索する義務を憲法によって、決められている。