国会の無意味化

   

庭の眺め 10号 具体的にどこということではなく、日々眺めている庭が絵に出てくる。記憶を描いている。見ていて記憶する。その記憶はいつどこで現われるか分らない。

国会の中継をラジオで時々聞く。最近の質問はテレビ向けということで、パネルを出して分りやすくやろうということらしいが、これがラジオでは、見えないのだから、分りづらい事に成った。平日の昼間、国会審議をテレビで見ていられる人は、お年寄りくらいだろう。国会質問で、答弁させることで、何かを成果を得ようという野党の質問は、少ない。結果を出すための質問というより、テレビを見ている人に、自分をアピールしようという意識の質問が目立つ。また政府の答弁も、質問に答えているというより、はぐらかしている場面が大半である。馬鹿にして、質問の幼稚さをあざ笑っているようなことも多い。又周辺のヤジもいい大人がばかばかしい限りだ。そういうことを含めて、わざと政府の不誠実をアピールしようとする質問になる。最終的には多数決でどうせ決まってしまうのだから、国会の質問を形式的なもので結構というか、儀式的な通過儀礼にしているということに見える。一応やりましたというだけの無駄な国会に成ってきた。

それを強く確認したのが、NHK会長籾井氏の罷免問題である。この変わった人が、NHKの会長にふさわしいと考える人は、まずは少ないだろう。就任会見のとんでもない発言を思えば、即罷免が当然である。しかし、取り消したのだからもう済んだこと、というのが国会の認識のようだ。取り消すというような性格の発言の訂正ではない。内容としては信念であるが、発言の場を間違えたという弁解だ。NHKの職員も可哀そうなことだ。理事は社会常識ということで、辞職願いを預かったということだ。こんな社長の会社では、やりきれないのが普通だ。こんな非常識な人が会長にふさわしいというのが、日本の公共放送ということだから、日本の社会の異常事態であると考えなければならない。国会の追及も厳しく行われている。しかし、黙って耐えていれば、おしまいということで、苦虫をつぶして耐えているだけの不毛。どう考えても、もったいないと思う。農業改革など重要な場面であるにもかかわらず、実態の議論はどこで行われるのだろうか。

TPP交渉もかなり、重要なことに成っている。しかし、この議論も外交交渉ということで、経過は国会審議を通しても、国民には知らされていない。このままでは結論だけが示されて、政府一任ということになってしまう。外交交渉であるとしても、最終判断は国民が行うべきである。政府が決めたということでは済まない日本の進路を決めるような問題だ。農家にとっては生活のかかった、重要な判断に成る。たぶん農家だけでなく、将来、EUのような、経済連合から国家統合まで、可能性としてはある条約の問題だ。出だしがずさんでは、成るものもならない。そして一番重要な問題は、平和憲法のことである。平和憲法の、文字通りの解釈では、日本の防衛がまっとうできないので、解釈を広げようということが出てきている。簡単にいえば、自衛隊が海外の紛争に参加できるようにするということだ。それを集団自衛権の拡大解釈で行おうとしている。憲法の解釈論からいえば、ありえないことだ。

ところが、小松法制局長官は以前からこれを解釈可能としてきた人で、前例を越えて安倍氏はこの人を任命した。安倍氏はアメリカとの同盟関係を重視しているのだと思う。アメリカから要請もあるのだと思う。しかし、現在の国際情勢は、短銃んにアメリカとの2国関係を考えていればいい状況ではなくなってきた。アメリカが中国と接近し、日本の国益を損ねる場面は必ず起こると考えていた方が良い。例えば、ウクライナで戦闘がおこり、アメリカ軍が出ることになったとして、日本軍も出た方が良いということになる。出ざる得なくなる。そこまで平和憲法がないがしろにされることになる。これは解釈の範囲とは到底言えない。憲法の改定を行うべき案件であろう。世界のあらゆる紛争に対して、集団的自衛権と範囲だと、内閣が決めれば、自衛隊は出動できる。ウクライナの邦人の救出などを理由にする。

 - Peace Cafe