水彩画教室 5
山北向山の桜 10号 これはおととしの桜だ。そろそろ桜の季節に近づいている。
絵を描くには、その目的や意味を明確にしておく必要がある。楽しいから描くでもいいし、描いていれば人生が充実するのでというのも良い。しかし、ただ描いているだけでは、進歩というものがない。衰退しているのに気付かないのでは、楽しい訳がない。絵を描く楽しさは、未知の、人生の深遠に踏みこんでゆく、緊張感である。今だ到達したことのない世界に触れているのかもしれないという、深い感動を経験できることが、絵を描く醍醐味なのだ。だから、現状維持でなく、常に今を否定して、未来に向かう気持ちで取り組まなくてはならない。そのためには絵を描いている意味を、明確にしておく必要がある。5月の底抜けに明るい日差しに輝く、草原に咲くやまフジを描くとする。明るさの中にあるものは、自分もそこに所属する喜びかもしれない。人生の安心と、希望かもしれない。日々を生きる充実まで見えるかもしれない。ボナールの絵には、そうした明るさのその先にある、悲しい影まである。色や形や意味を通して、ボナールののぞいた人生の深遠が見えるから、絵画なのだ。
絵を深めてゆくためには、自分の様式というものが必要である。絵の世界を探求するには、自分の絵の方法論のようなものが必要である。マチスのやり方があり、ボナールのやり方がある。絵画する思考の上で、ある一貫性がなければ、自分の内的世界を深く追及して行くことはできない。そうでないと、頭を使わない写す機械に成り下がる。しかし、様式というものは、絵の世界では出つくされたように存在する。若い内に要領よく絵を描くために、ボナール方式です。マチス方式です。中には珍しい聞いたこともない外国の人のやり方を取り入れて、自己流だと主張する要領のよい人も多い。大体に世間はそれに騙されてしまうから、要領の良い人が目立つことになる。その為に評価された人ほど自滅する。絵を描く要領を教えたり、教わったりするのが、学校であったり、絵画教室であったりする。しかし、要領から入ると、必ずその人の人間にに至ることはないから、頭打ちに成り、さらに別の要領を探すことになる。それでも、絵を深めるには様式が必要なのだ。
まず、自分というものを確認する作業が必要である。それは自分が所属している世界の確認から始まる。出来上がった絵をあれが好きだとか、これが良いとかではなく、自分が見ているものが何かである。世界はすべて目に写っている。その中から、何が自分の目指す世界なのかを、考えなくてはならない。花が美しい。これも材料である。雲を見ていると夢を感じる。これも材料である。山を見ると自分が同化して行く。これも材料である。絵を描くという目で、世界を見つめ、又自分の内部世界も見つめ、そして、自分が絵にしたいものはどうもこれらしいということを掴まなければならない。その目的が確認できない内に、様式を身につけてはならない。自分の方向を、繰り返し探らなくてはならない。その後に、自分のやり方を確立しなくてはならない。こういう順番である。いつまでも自分の様式を方法を見つけられないのも、自分の絵画の意味の確認が出来ないということである。
木を描こうとする。木の幹をどう表現するのか考えたときに、棒一本もあれば、立体として事細かく描く場合もある。どれが正解というのでなく、木というものをどういうものと考え、木が自分にとって何なのかが分らなければ、実は描くことはできない。自分の絵ではその木がどんな意味をなすのか。このことを探り、深めてゆくためには、自分の描き方、迫り方の方法の確立が必要なのだ。だから人から借りてきた方法では、問題の核心に迫ることではなく、どこか他人の完成した絵に似ている、すでにある絵画世界のまねに成って終わる。自分が木を見ているという原点に立って、どこまでその木を描こうという世界観に迫れるかである。このあたりの整理が出来ないまま、絵を描いた所で堂々巡りで終わるばかりだ。様式を持つことは危険ではあるが、恐れていたとしても先に進めない。