里山資本主義 1
上の畑の道 10号 ここは一番良く描く場所である。最近は家の廻りの畑を描いていることが一番多いいのだろう。
「里山資本主義」藻谷浩介著 NHK広島取材班 角川書店 を読んだ。里山資本主義という言葉は造語らしいが、あしがら農の会の「地場・旬・自給」とかなり近いもののようだ。この本はベストセラーになっているそうだ。中国地方を中心にした動きを、NHKの人がまとめた本である。経験のない人には、田舎暮らしを理想化して、どうせ現実を見ていないと思うことだろう。しかし、ここに書いてあるのは、里山経済の合理性の一部に過ぎない。全国各地の里山で、似たような動きが存在している。この種の本がこんなに読まれて居るのは感激である。何となく里山資本主義という耳慣れない言葉が、言葉として動き出している。日本が曲がり角に来ていることが感じられる。マネー資本主義から、グローバルから地域主義へ、本当の豊かさへ。豊かさの見直しである。ここで強調されているのは、都会の生活の質とレベルを落とさずに、地方でお金なしに豊かに暮らすことである。ブータンの幸せ感では、十分でなくなった日本人への、注意書きなのだろう。その点でも農の会の方向性を確認するためにありがたい本である。
田舎暮らしは、お金がなくても豊かなものだ。私の暮らしからいえば、部屋が広いということが田舎の一番良い所である。今住んでいる家ば、長年空き家だった家だ。空き家は小田原でも徐々に増え始めているが、地方では数限りなく存在する。空き家は人が住まなくなると忽ちに自然に戻り始める。その意味からも、お互いの為に所有意識を変えるべきだ。空けておくなら人に貸す。人に貸すことが安心できて利益にもなる。社会的に奨励される仕組みを、地方行政が作ることだ。部屋が広いと、絵が描きやすい。物を置いておける。最近は捨てる整理ばかりが強調されるが、置く場所さえあれば、取って置くことも大切なことだ。取っておけば誰かが使える。捨てれば、ごみと成り処分に費用がかかる。廃棄することを美徳とするのが、消費文化である。マネー資本主義である。物を大切にする文化の方が、健全で豊かな暮らしに決まっている。子供の頃はカンズメの缶さえ、捨てられることはなかった。
江戸時代の見直しが不可欠である。それは世界の永続社会構築の為だ。江戸時代こそ里山資本主義の時代だ。江戸時代の良いところを引き出し、現代社会に組み直す。世界で最も発達した循環する社会は、次の時代のモデルに成る。江戸時代の身分制度とか、封建制度とか、問題点を挙げればきりはないが、永続する社会の大実験が鎖国の江戸時代に行われた。江戸時代の悪いイメージを作り上げたのは、明治政府である。農民は明治維新によって江戸時代より厳しい生活を強いられた。富国強兵を国民全体の意志にするために、江戸時代の社会が丸ごと否定されてしまった。暮らし全体を、ご先祖様から受け継ぎ、次の子孫に送り出してゆくものであった。農業を特に稲作を基本の経済に据え、農地を育む思想が存在した。生産性の向上よりも、土壌の手入れを続け、より豊かな土地を作り出すこと自体が、何代にも渡って継続されてゆく暮らし。それが個人にとどまらず、部落という単位で、共同され、意志の統一がはかられる。部落のまとまりが、村の連携に成り、藩という単位で独立した形が取られる。
江戸時代は、米を経済の基本に据えている。給与も米で換算され、田んぼ1枚1枚が、生産性のランクごとに、仕分けられていた。その根幹にあるのは食糧こそ、国の基本であるという当たり前の思想である。里山の暮らしは申し訳ない位に、得をしている。太陽すら十分に分けてもらえない都会の暮らしとは大違いである。都会で40万円の暮らしは、田舎なら10万円で出来るということである。これは私の実体験として本当のことだ。土地が安い。都心で300坪の家に住めば、税金だけで大変なことになる。東京に較べて小田原は不便かといえば、新幹線を年に何回か使えば同じことである。新幹線の代金程度なら、家賃の差額よりはるかに安い。農の会の自給では、小麦粉は、1キロ300円であった。お米は1キロ100円くらいである。大豆も1キロ300円くらいだったか。地代や機械代などを入れるとそうなる。これを高いと考えるか、安いと考えるかが、里山資本主義の判断である。里山資本主義については、この後も、もう少し考えてみたい。