大震災から三年がたった

   

根子岳 10号 九州阿蘇の山である。不思議な形をしている。噴火で出来た山を描きたくなるのは、形が自然にまだ均されてなく、むき出しな感じがあるからかもしれない。

大震災から3年が経過した。まだ昨日のような気もするが、3年の時間が経過したことだけは確かだ。安倍総理は復興が進んだ1年であったと記者会見したが、そんな風に思う人は少数派だろう。あの日は東京で水彩人同人展の会場に居た。昨日も同じ会場に居て、生々しくあの日を思い出した。帰宅難民に成り、大変だったということもあるが、情報がない中で、東北の方で大変なことが起きたらしいというだけの不安の中に一晩過ごした。家との連絡も取れないまま翌日に成って、やっと家に連絡が取れた。その後、東北の被害が伝えられて、茫然としてどう受け止めたらいいのか、混乱するばかりであった。今3年がたち、様々な場面での、責任が問われている。私が責任ある立場で、東北の津波の現場に居たとしたら、正しい判断が出来たかと言えば、難かしかったと思う。あの大地震で動揺してしまい、判断力が失われている。今なら、こうしたのにという後悔は誰にもあることだが、受け入れざる得ないほどの大惨事だったのだとおもう。人間はそれほど強いものではない。

私自身が被害者に成るのは、その後の原発事故である。事故後放射能の飛散は予測できた。スピーディーの情報が公開されなかったということが、問題だったとされているが、原発で大事故があり、放射能が飛散しないはずはなく、それはかなりの広範囲になることは、良く分っていた。結果的には良くもあれで収まったということだろう。今こうしてここに暮らしていられるのは、幸運なことだと思う。最近になって、放射能の安全基準の見直しということが言われ始めた。放射能を極度に危険視する人は今も存在する。南足柄には住めなくなると講演した人がいたが、ああいう人は今どういうことを思っているのだろう。放射能の影響については、ずいぶん調べた。そして自分自身で判断をして、このブログにも何回か書いた。今も自己判断としては、間違っていなかったと思っている。安全基準というものは、常にリスクと現実の暮らしとのバランスの中にしかない。それにしても、原発事故はよくあれで収まっている。

福島の子供たちのことが一番心配であったが、3年経過の段階では不安要素はあるとしても、顕著な被害が出ていることでもないようなのは、不幸中の幸いである。私の子供時代は、南太平洋でアメリカの核実験が頻繁に行われていた。福島事故レベルの放射能拡散が、たびたびあったはずだ。放射能は消えるものではないので、日本の国土を調べれば、当時の放射能飛散がどの程度であったか分るはずだ。漁業関係者には、かなり、たぶん数千人という数での、放射能被害が出ている。ソビエトの核実験は自らの国土で行われていた。この放射能の被害も、深刻にあったはずだ。しかし、概ね人類の寿命は延びた。たぶん、放射能の影響というのは、それぞれの個体別のリミットがあって、身体は修復しながら、影響を受けるから、その限界が、大きく違うのだろう。100ベクレルで安全と言っても、あくまで平均値で、過敏な影響を受ける人に自分が成らないとも限らないという所に、この問題の複雑さがある。せっかくできた、安全基準を今更見直す科学的根拠など、あろう訳がない。

最近では、この地域の農産物への放射能の影響というものは、極めて小さくなった。これは予測より、格段に早い土壌の改善が背景にある。土壌がこれほど早く改善されていくということは、考えにくいことだった。私の子供の頃かぶった死の灰が、今でも土壌に存在しているということは、当時の汚染はかなりの量になるのだろう。我が家に福島から来た、鶏も、犬も、猫も、来た時は被災動物の保護ということだったが、今は私の暮らしを、格別の愛きょうで助けてくれている。雷田が死んで悲しいのだが、その分フクやルルやララがいてくれて、元気をもらえる。特に犬のフクちゃんは、相当の苦労を経て我が家にやってきたので、見苦しいほど甘える。どこかにまだ不安があるのだろう。原発事故は引き続き深刻である。関連死者数は1000人を越えたという。こんな事態で、再稼動を口にしてはならない。人の苦しみを理解できるなら、再稼働はあり得ない。

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