絵を描く場所

   

瀬戸内、山口 10号 瀬戸内海には瀬戸内海独特の色がある。この色は伊豆の色とはまるで違う。土の状態が違うのだと思う。

絵を描いている机、微妙な傾斜を付けた台と、平らな場所がある。

描いたものを、正面に並べて置く。右側にある引き出しが、絵を入れて置く桐で出来た、引き出し。中盤全紙がそのまま入る。引き出しは2つあり、ほぼいっぱいである。

絵を描きやすい場所はあれこれ変わってきた。金沢に居た頃は、美術クラブの古いアトリエで良く描いた。徹夜で暗い中で、平気で描いていた。大学の中ではあるのだが、金沢城の中である。最初の頃は、旧生協跡と呼ばれた建物に居付くように描いていた。その後は馬小屋の跡に移り、その頃はそこで暮らしながら絵を描いていた。大学の中に住んでいたのだから、おかしいが、馬小屋で絵を描きながら授業に通った。あの頃は絵描きになるというようなことよりも、絵を描いて居たいだけで、ただ時間があれば描いていた。他にやることが分らなかった。そんな状態だから、薄暗い中でも平気で描いていた。大学の勉強もやらなかった方ではなかったと思うが、この先これ以上勉強をやりたいとは思わなかった。馬小屋の上の方に大学の図書館があったので、そこで勉強の方はしていた。今はすべてなくなった。

その後フランスに居た時は、8畳ぐらいの一部屋で絵を描いて、暮らしていた。サン・フロランタンという、パリの中心部のアパートの確か5階だった。下には、のちにそのビルの下には、ようかんの虎屋が出来ていた。4家族が一塊りに住んでいる不思議な家だった。コロンビア人の芸術家と、フランス人の娼婦の人と、隣が洋服のデザイナーの日本人だった。狭い部屋で描いていたのだが、美術学校のアトリエで描くことの方が多かった。ボザールのサバロ・アトリエは、窓からセーヌ川の見える。なかなか描きやすい場所で、いつでも制作が許されていた。部屋の高い所や天井にも窓があり、不思議な明るさのある部屋だった。東京に戻ってからは、ビルの6階の一室である。西と、北の2面がガラス窓で、明るい部屋だった。生活を見つけようとしながら、見つからず先の見通しもないままに、絵を描き続けた。結局絵描きになれることはなく東京を離れた。山北の山の中に移住した。大きなアトリエを作った。ここの窓は、南全面に近く、天井まで5mはあった。アトリエは作ったが、アトリエでは描かなくなった。現場の写生の為に外でばかり描いていた。水彩画で風景を描くことを始めることになった。

そして、今は小田原に移った。小田原に移ったのは、自分の選択というより、様々な事情が生じて、移るのも一つかと考えてのことだった。その時に今の舟原の空き家を思い出し、みんなで見に来た。そして、古民家の中にアトリエスペースを作った。写真の南向きの縁側である。絵は窓の前で描いていることになる。ともかく明るい場所である。全体としては、食事をしたり絵を描いたりする場所である。場所は色々の所で描いてきたが、金沢で絵を描き始めた頃の暮らしと、今の暮らしは変わらないようなものだ。絵を描く場所で寝起きしているという感じで、今でも馬小屋で朝起きた感じを、まざまざと思い出す朝がある。何に向けて絵を描いているのかはよく分からないのだが、絵を描くことが充実充実で手ごたえがある。やりがいがあるというか、歯ごたえがある。絵に向かったまま何もできない日もあるのだが、これしかやることはないと思う。このもう少し先が分ればそれで満足だと思う。一日一日をありがたく生きている感謝。絵を描くということはそのことと結びついている。

今絵を描いている場所は、写真のように縁側で描いている。縁側で描いた絵を下の写真のように西側の正面に並べてある。正面に庭と借景の山を眺めながら、右手の絵が見れるようになっている。右側と奥の方に絵を保存する引き出しがある。風景を描くことが多いので、外に描きに行くことも多いのだが、以前は自動車の中が絵を描く場所だった。すべての絵を自動車の中で描いた。庭にある自動車の中に入って描いていていたことがあるほど、そこが描きやすかった。絵は明るい場所ほど描きやすい。明るい場所を暗くすることはできるが、暗い場所を明るくすることはできない。電燈では絵は描きにくいものだ。絵をダメにするので、太陽光以外で絵を描くことはない。南向きの4間全面ガラスの縁側で描いているのだが、更に天窓を付けようか考えている。雨の日などこれでも暗いと感じるのだ。目が悪くなっていることもあるのだろう。

 - 水彩画