絵画批評について

   

野尻湖からの妙高岳 10号 ここも良く描きに行く場所だ。少し雄大過ぎてまとまらない。

今、一枚の絵画廊で水彩人同人展が開かれている。とても良い展覧会に成っていると思う。まあ、自画自賛であるが。絵の仲間と久しぶりに絵の話が出来た。大切なことだし、ありがたいことだ。酒を飲みながらあれこれ絵のことを話す。こういう時間が持てることがありがたい。結局は「絵画とは何か。」この事に突き当たる。好き嫌いや、その時々の感じ方で印象批評が行われることが多い。感情的批評が一般化することによって、絵画の批評文化というものが、失われてゆく。絵画まで経済だけに成る。経済性の高くない絵画分野への、社会的関心は薄くなっている気がする。美術評論の文化が確立できない所に、絵画の衰退が現われているともいえる。今の時代でも美術評論家を自称する人たちがいるが、どういう思想や哲学を持って美術評論をしているのかは、ほとんど見えてこない。見かける文章の大半は、美術感想文である。もしかしたら、私が気付かないだけなのか。

美術批評家連盟というものがあり、WEB通信を3回出している。第3号では3,11の大震災と美術のことが書かれている。一通り読んでみたが、震災と美術について、社会における美術のあり方という観点から、納得のゆくような文章はなかった。特に特徴的なことは、震災を自然災害の大きさ、自然に対する畏怖のようなものととらえている人ばかりである。美術が直面した問題は、原発事故と人類の行く末だと私は思う。美術にも社会の方向性が影響しているものであるなら、原発をどう考えるか抜きに、美術の存在などあり得ない。当然、そこに美術の役割というものを考える必要がある。岡本太郎氏ならどう発言したのだろうか。2号では美術のアマチアリズムが特集されているが、失礼になるとは思うが、全く内容がない。私が考えているような「私絵画論」などの視点は全く見かけない。社会の中の自分の立ち位置を意識したような、無難な文章が目立つ。

全日展という書道の団体の代表が16の作品を描き分けて、一般の出品者を装っていたという事件が明るみになった。その背景にあるのは、自分達の団体の勢力を、過大に見せたいということがある。さらにその裏にあるのは、現代の書道で描かれているのは、あくまで代書であって、作品ではないということである。書道家の字を見たいなどと全く思わない。坂本竜馬の字は見る価値がある。人格人物に興味があり、字が見たいのが普通だ。上手に描かれた字に大した違いはない。だから、16名も描き分けても同じことである。これは実は、絵でも似たようなことが起きている。その作者の哲学が見たいというより、そういう図柄を見ればいいというような事だ。それはまた別の機会に。書にも批評家がいるのだ。そういう代書屋さんの作品のようなものを、良いの悪いの批評をした所で無意味は分っているが、ところがそれが生計に成っている人もいる。

私は美術評論家と言われる人に会ったときには、本音で批評をしてほしいとお願いする。ところが、本気がもうどこかへ行ってしまったのか、ちゃんとした批評を聞いたことがない。お金を出さない奴の絵など批評できないということか。悪口を言えば商売に差しさわりがあるからなのだろうと想像する。私はそういう意味で嫌われ者でいいのだが、こういうことを公に書くと、ある意味会の運営に差しさわりがあるという人もいるわけだ。そのために、不要なものが温存される結果に成っている。批評家が要らないのでなく、本当のことを主張する、批評家が欲しいということだ。批評と制作はともにあって初めて、文化が深まる。命を戴き、日々生きているというありがたさを、深く感ずるということが、美術の根源だと思う。その時原発事故がどう影響したのかである。

 - 水彩画