裁判員の死刑執行停止要望
果物篭 1号 小さいものを描いてみた。小さい作品が水彩画の本来のようなものだ。色や調子において、水彩独自の表現ができる。作品に於いて、大きさとは何なのだろう。
死刑執行「一時停止を」 元裁判員死刑判決に関わった人を含む裁判員経験者約20人が、執行を一時停止した上で死刑制度の情報公開を徹底するよう求めるー―東京新聞
裁判員制度ができた時から危惧していたことが、現実化した。普通に暮らしている人に、人を裁く義務を与えることは、とても辛いことだ。しかも、それが死刑となれば、その判断以外になかったのかを、一生悩むことに成る可能性がある。しかも、それが間違った判断だったのかもしれない可能性があるのだとしたら、生涯罪の意識に苛まれかねない。判決に一切の疑念のない判決などあろうはずがない。裁判員制度は早急に廃止すべきだ。裁判員制度は日本の社会に適合しない。私が当たってしまったら、必ず断るつもりだ。しかし、断って済むものではないらない、義務に成っているのでこれは困る。あえて言えば、どれほどわずかであれ、疑わしきは無罪と決めている。極めて常識を欠いた判断をする人間であるということを、理由にしたい。死刑廃止論を支持しているかは聞かれるらしい。これもおかしな話だが、廃止論者であれば裁判員はやらないで済むというのも、何かおかしくないだろうか。
裁判員一人ひとりの価値観は異なるはずだ。それがふうつ暮らしている人の姿だ。それを法律という統一した基準で、罪を軽重を決めるのが裁判である。統一基準に対する訓練が不十分なものが、簡単にやれるようなものではない。それをもしやろうとしたら、その時の社会の潮流に従うことに成る。もし私が裁かれる側であれば、客観性の乏しい、一般の人より、専門の裁判官の判断にゆだねたい。ところがその裁判官の客観性という信頼度が薄いというところが問題なのだろう。裁判官が特殊な世界の住人に成り、一般社会とはかけ離れた生活空間に生きるようになる。そして、普通の判断が全くできない人間に成る。そういう批判から逃れるために、裁判に国民全体を巻き込もうとしているのではないか。
人間が人間を直接裁くということに、国民の誰もが義務化されなければならないことはおかしい社会だ。私は鶏を捌いて、食べる。とても辛いことだ。やらないで済むならやりたくない。養鶏をやる以上、仕方がないのでやっている。しかし、こういうことを誰もがやるべきだとは思わない。やるには、覚悟と訓練が必要だからだ。鶏を捌くというようなことでも、不用意に行えば、心に傷を残すことに成る。裁き頂いた鶏のことを時に思い出すことがある。良い気持ちはしない。しかし、食べずに捨てるようなことはさらにできない。生きるということは食べるということであり、命を戴くということだと思う。しかし、そういう体験を誰もがした方が良いとは到底思えない。増して、同じ人間である。その人の生命に、人権にかかわる判断を任されるなど、耐えられることとは思えない。
アメリカには陪審員制度という長い歴史があり、そこから真似て日本にも導入されたのだろう。しかし、日本の社会に、そいう市民参加の制度が適しているとは思えない。市民参加は一見民主的なように見えるが、安倍総理が審議会制度を悪用しているように、市民参加も形式的民主主義を補完する役割に成っている。教育委員会制度、農業委員会制度。自治会制度、アメリカから教えられた制度は色様々あるが、日本の社会で上手く機能してきたとは到底思えないものが多い。国の成り立ちが違うからだ。日本はお上が治める国の歴史が長い。確かにその結果民主主義の成熟が遅れている。民主主義を育てるために、導入された仕組みが、むしろ民主主義を阻害し、形式化することに成っている。無理やりよその国から仕組みだけを導入しても、付け焼刃に成るだけである。むしろ、裁判官を尊重、尊敬する社会を作り、良い裁判官が生まれるようにすべきだ。