カジノの何が問題か。

   

渓谷 木曽川 10号 縦横が間違っている。今度直すが今はこのままにしておく。真上から見るという構図に興味がある。川だからこれもない訳ではない。不思議な絵なのだが、自分ではまだこの先がある気がしている。縦にすると滝に見える。水の持つ、神聖な世界。水神。

カジノが出来ると、その周辺では10%の犯罪の増加、アルコール依存症の増加、が起きているとアメリカの研究があるそうだ。カジノはネイティブアメリカンの居留地に出来ることがよくあるそうだ。これと言って産業もないので、カジノで町おこしということらしい。この辺は原発や軍事基地を誘致してまで作る心理と似ている。そしてそのために、アルコール依存症が増加する。そして家庭が崩壊して、その子供が犯罪に手を染める。こういうことが他所の地区より高くなると報告されている。確かにカジノで町には収益が上がる。と同時に、カジノのある自治体では、税の負担が生じている、とも書いてある。結局のところ、経済に暮らしが軽視されるということではないか。金がもうかるなら、何でもやりたいというのが、地域の生き残りである。金の為にはきれい事など言っていられないという、象徴的事業がカジノである。賭け事など、健全な暮らしからすれば犯罪のようなものだ。

何故そういうことを強く思うかと言えば、自分の中にそういうものにおぼれそうな、側面があるからだ。子供の頃、メンコとかベイゴマとか勝ち負けに燃えていた。自分の集団では、もうやってくれる人がいなくなり、遠征しては、つぎつぎに周辺地区に挑戦したほどだ。その内、やり過ぎて誰にも相手にされなくなった。メンコでもベイゴマでも、ともかく道具に工夫をする。メンコを蝋で煮たり、ローラーで圧力をかけて固めたりした。ベイゴマは比重の重い、かたい金属を探して、大きなベアリングから削りだした。負けない為に、勝つために、凝りに凝ってしまうのである。そして中毒症状に成り、片時も忘れる事が出来なくなる。それが将棋に成って、これもずいぶんやった。しかし、賭け将棋はやらなかった。もし、これが賭けるという要素が入れば、はまり込んで恐ろしい状況に成ると考えていたからだ。賭け事は、常習性があり、中毒症状に成る。それを感じていたから、近づくことを避けて生きてきた。ドフトエフスキーの「賭博者」を読むとその心理が良く分る。

私のタイプは、技術的要素があるものが好きだ。昔の手打ち式のパチンコ台なら、はまったのかもしれない。何かをして技術が向上して勝てるようになるというのが、好きだった。それは今やっている、絵を描くことも、田んぼをやることも、少し似ている。違わないが、勝ち負けということがないところがさらに面白い。そのことに幸い気付くことが出来た。農業をやったり、絵を描くことが、金儲けに繋がるから頑張るという人もいるだろう。そういう意味で、資本主義経済というのは、人間の中にある、賭博者的資質を刺激して出来ている。確かに、競輪競馬より株の方が、配当率が大きい。株取引を仕事にする人は、本当の賭博者と言っても良いのだろう。株にハマっても自分の枠内で、始末できる人もいる。しかし、株の投資で身を滅ぼす人もいる。日本でカジノを解禁しようという国会議員連盟がある。こういうことを考える人は、よほど自分が賭博にはまらない自信がある人なのだろう。あの浜田議員や、王子製紙の社長のように、身を滅ぼす人は数限りなく存在する。カジノ中毒者はその人間の能力とは関係がない。

カジノ解禁は日本が堕落してゆく象徴である。何も、公明正大な健全社会だけが方角とは思わないが、せっかく人類が乗り越えてきた、ダメな方向に後戻りすることはない。アメリカ社会のまねをする必要はない。脱法ハーブとか、マリファナとか、法基準は各国によって異なる。どこまで法の取り締まりを取り除くかということより、社会的常識の範囲を、ゆるめないという健全さは保つ必要がある。これが禁酒法となればさすが行き過ぎというのが、社会の許容範囲だろう。又、社会規範を緩めればきりがない。カジノのない社会が、現在の日本の常識の範囲の、普通の健全な社会だと思う。せっかくこういう社会を作り出したのだ。カジノを健全娯楽などと考えるのは、賭博中毒の恐ろしさを身内で経験していない人だ。今ある公営賭博も、徐々に止めてゆくべきだ。これからますます税金が足りなくなり、カジノ依存症に国が成りかねないことを恐れる。

 - Peace Cafe