代作の交響曲HIROSHIMA

   

酒匂川河口 10号 河口の絵はよく描く。河口には何か描きたくなるものがある。山と、川と、海の、出会う物語のようなものが、凝縮している。そうした物語が絵と関係があるのかも良く分らないが、ともかく、描きたくなる。しかし、人工物で汚され、壊され、河口らしい、良い河口というものが失われている。

佐村河内氏の「交響曲第1番 HIROSHIMA」は他人が作ったものだった。食品偽装を連想した。車エビが車エビではないのに、グルメが堪能していた事を思いだした。伊勢海老の味よりも伊勢海老という名前が独り歩きする。これは、絵の世界でも同じことである。ゴッホの絵よりもゴッホ物語が人を引き付ける。商品の時代だから、売れるならどんな物語でも作り出す。芥川賞だって、作者が特別な人の方が本が売れる。売れる出版をしなければならないという企業は、止まる訳に行かない事情がある。音楽業界も同じなのだろう。障害のことをアピールするというやり方が、ベートーベンをイメージさせるとは言え、何とも気持ちが悪い。作品というものは発表された後は自分のものではない。以前も書いたが、このブログに出している絵もどうぞご自由にお使い下さいということである。版権とか、創造物とかいうものは不要と考えている。作品は商品ではない。有効に使えると考えるなら、誰でも自由に使える。

代作をした人はどう考えていたのだろう。代作の新垣隆さんは、現代音楽の作曲家で、桐朋学園大学で講師でもあるらしい。18年という長い期間、28歳から続けていたという。ずいぶん複雑な動機と背景があることだろう。会見の様子では、自分の作品が評価されるのであれば、どんな手段であれ構わないと言う理由でもないようだ。佐村内氏の要望に答え過ぎて、落とし穴に落ちたようだ。落ちた穴から出ることが出来なくなった。本当にこの2人のことだったのだろうか。絵の世界では、タレント作家という人がいる。やはり絵は売れている。商品絵画作家の、鶴太郎さんの作品は小田原駅のコンコースの上に、巨大な陶板画がある。どれほどのものか一度は見る価値がある。判断はそれぞれにお任せするが、これが代作でないとすれば、本人に審美眼があるなら、降ろしたいことだろう。今後長く残ってゆき、どういうことになるのかは、小田原という町の見識が決めることだろう。鶴太郎さん自身は作風を変えて、今はヘタうまは止めた。リアル路線である。代作の背景には、販売価値がある。

商品絵画の世界というものをきちっと認識し、位置づけた方がいい。美術の一分野ではあるが、クール日本とかいう、アニメの世界と同じことである。商品であるから、経済として重じられ、出回ることがその価値である。、絵画という芸術分野とは別ものと考える。絵画は衰退し、社会的価値を失い、個人的価値の問題になった。というのが認識である。それを「私絵画」と呼ぶことにした。どこまでも自分の為の絵画であると考えなければ、存在の立脚点がない。描くという行為に主たる動機がある。千日回峰行が結果を求めないのと同じことである。無駄なことである。無駄なことだから、自分という存在に何かをもたらすかもしれないという考えである。千日回峰行を支えているのは、お布施である。ご飯も食べるし、服も着る。修行者の暮らしは、それを尊いと考えた人が支える。私の場合尊いというほどのことをしていない以上、自給生活を目指す。自給で生きているのだから、後は絵を描いていても問題がない。

佐村河内氏や代作者や、もしかしたらその背後に居た人も良くない。その背景となる音楽業界のあり方は、ひどい世界だ。音楽業界では、代作など横行しているのだと思う。私が作りましたなどと自慢げに説明する、歌手が沢山いる。その方が売れるということだろう。現代音楽の作家が、ヒロシマを作るのは堕落したと言われる。代作者がヒロシマを発表して、評価されたのかどうかである。たぶん評価はされたのだと思う。しかし、それほど売れることはなかっただろう。もしかしたら販売もされていないのかもしれない。そういう商品経済の時代である。しかし、作品を発表する事は誰にでもできる。オーケストラに演奏してもらうというのは、難しいだろうが、楽譜を世間に公表することは、自由である。U-チューブには色々な音楽が存在する。絵を描くということはさしてお金がかかるものでもない。勝手に描いて、一応公表するというスタンスがいいと思っている。それが何かに成るということではなく、ただただ続ける。

 - 水彩画