水彩画教室 2

   

長野から北に行ったあたりの田んぼの秋 10号変形 丘の上から見下ろしている。いわゆる棚田であるが、東に向いて開けたところである。収量は少なめに見えた。

絵には良い絵と、つまらない絵とがある。当たり前と言えば、当たり前なのだが、私にはこれが不思議だ。自分が描いたのだから、全部自分なのではないかと思う。ダメな絵であるなら、ダメである理由も自分であるからだ。それも絵として意味が無い訳ではないと思う。だからすべてを一応は採ってある。そして、それが何故面白く見えないかを時に眺めている。大抵だめだと思った絵は、あることに溺れている。何か一つのことにしがみついて描いている。そのしがみついた意識のようなものが災いして、無意識の広がりのようなものを妨害している。あるものを見るということにとらわれて、見るということが出来ない状態に陥っている。だから見えたというものが狭くて、実は見ているということは、見ていると意識していることよりもはるかに多くの情報で出来ているにもかかわらず、そのことにまで絵が広がっていない状態ではないのだろうか。それは視覚だけではない、幻想のようなものもある気がしている。見るということは、見ないということでもある。

何故良くなると思うかである。あるいは、なぜダメな絵があるかである。言い方を変えれば、美しいと思う事だって不思議だ。美しいから絵なのかどうかと言えば、それはそれで絵とはまた別のことのような気もしてくる。美術と言えば、美しいということはとてもウエートが大きいのだが、芸術となると、そういう範囲のものではない。日本は何故か美というものに傾斜したが、浮世絵の世界はそうでもない。中国の絵画でいえば、美というものは直接の目的にならない場合がある。もう少し哲学的な世界観、宗教的世界観を表現するものとされている。美のことは別にしても、何を描きたいのかが分らなければ、自分の絵に行きあたることはないことは確かだ。行きあたりばったりで、絵らしいものを描いていたところで、絵に至ることはないだろう。空海は道心を持って行うということを言っているらしい。

空海は、司馬遼太郎によると、日本最高の天才だそうだ。その天才が努力もすごかったらしい。だから、天台宗では修行が実に厳しい。あの1000日回峰行、又それ以上の修行すらあるという。苦行というものが道につながるというのは、私は全く信じない。少しは禅宗の修行をしたものとして、修行に向いている人もたまにはいるが、大体人は合わない修行で人間をダメにすると思っている。そういう人をたくさん見たからである。その空海が言うには、12年ほど道心を持って努力すれば、才能のない人でも結果に至ると、いわれている。禅宗では面壁9年という。12年の方が理にかなっているかもしれないと思えてきた。空海は平安初期の人で、中国に学んだ人である。水土技術を携えていたと思われる。たぶん稲作技術も進歩させた人のはずだ。又、素晴らしい字を書かれる。12年というサイクルは、12カ月と同じであり、もう少し大きな環を意味している。

良い絵というものをこれから12年かけて、見つけるとなると、77歳喜寿の時が目標となる。なんとかまだ間に合う可能性がある。何とありがたいことか。大天才空海が、凡人でも12年の道心ある行動と言っている。今までの65年というものは、絵を描くための予備段階ということだろう。つまり、絵を描くというのは、自分の見えるものを描く訳だ。私絵画の世界である。何が見えるかが、前段階として問題である。つまらない物しか見えない人間が、見えているものを描いたところで、絵に至る訳がない。私が田んぼを見て見えるものがある。鶏を見て見えるものがある。この見えるものを少しづつ増やしてきたのが、65年間だったのだろう。これからはその見えるものをいかに絵として表せるか。12年間やってみようと思う。その証として、毎朝、一枚新しい絵をブログの前に出すようにする。これが私の弱さかもしれない。なんだか、ブログダイエットを思い出した。

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