道徳の授業

   

道徳の授業とはどんなものを考え得るのだろう。私の小学校の時の記憶では、ほとんど無駄な時間だったと思う。ネットで見てみると、小学校1年から6年までの埼玉県の授業案が出ている。一つ見てみようとしたら、野口英世博士を取り上げた授業案が出ていた。そういえばそんな授業を受けたことがあったのを思い出した。すっきりと黄熱病の病原菌を発見した偉人野口像だった。先生が会津の出身の人だったから、かなり力が入っていたのだと思う。貧しく育ち、子供の頃囲炉裏でやけどをして、しかし、母を助ける子供だった。アフリカの病気の人に生涯をささげたという、偉人伝にまとめてあった。いまでもこういう話をやっているのかと驚く。実像の野口英世博士はとても複雑な人間である。現在では医学的なその業績においても、疑問が持たれている。周辺の人間関係では、トラブルが多く、問題点を指摘する書物も数限りなくある。この稀有な、有能で不可思議な人物を、道徳の授業でどう取り上げたらいいのか、私は考え込んでしまった。

尾崎光弘氏の資料から礫川全次のコラムと名言英世伝は第2次世界大戦前に54冊、そして戦後から1989(平成元)年までの間に217冊出版されている。ひとりの人間についてこれ程たくさんの伝記本があることは珍しく、これは読者のニーズがなければ生まれない事実である。そして尾崎光弘氏が「英世伝」出版数の推移を分析した結果によると、英世伝ブームには5つのヤマがあるという。すなわち①死去後②戦争期③復興期④高度成長期⑤70年代である。尾崎氏は、これらのヤマはすべて日本社会の大きな転換期にぴったり当てはまっていると指摘する。
 まず①死去後の頃、1936(昭和11)年の『尋常小学修身』では「志をたてよ」という単元で英世が取り上げられ、立派な人になろうと志を立てたことに焦点が当てられている。当時、立派な人間とは国家のために仕事をする人間のことである。②戦争期では1942(昭和17)年の『初等科音楽二』で唱歌「野口英世」が採用されている。歌詞には「人の命すくはうとじぶんは命すてた人」とあり、立派な死に方をした人という側面が強調される。時代は国のために死ねる、たくさんの兵隊を必要としていた。

道徳科における野口英世問題を特に取り上げたかと言えば、野口英世が変貌して行くように、道徳科の授業の目的は時代によって変化して行く。公教育の小学校に置いて、行うべき道徳教育は、実はその時代の政府が期待する人間像が反映する。確かに自民党は新しい日本人像を作り上げようとしている。自民党憲法案に現われている人間像である。今度の人間像は、ホリエモンなのか、楽天の三木谷社長なのか、ワタミの渡辺社長なのか、ジャパンドリームを掲げて働く人を作りたいということになりかねない。自民党内部には、明確な期待する人間像があり、その人間像に併せて、道徳科をもっとしっかりしなければだめだという、焦りのようなものがあるのを感ずる。自民党が持っている、伝統的日本人像のようなものが、実はどうにもならなくなっているのだ。そんなものは道徳の授業ような、言葉の教科ではだめだ。

宗教に修行というものがあるように、人間を作り出すためには、確かに我慢して身体で経験しなければだめな所がある。その点道徳より、体育の授業の方が、個人と全体の関係や能力主義の意味を体で覚えることになる。チームが強くなるためにはどうすればいいのかを知ることになる。早いリレーのチームを作ることにどういう意味が潜んでいるのか。そしてその中には、日本に蔓延する体罰の問題が内在する。道徳科よりも、耕作科あるい作務科を小学校で行うべきなのだ。どうすればよい田んぼが出来るのか。掃除一つ良くやるには、すべての要素が含まれている。その背景には人間力というものの、本当の意味が潜んでいる。いずれにしても人間を育てることが出来るのは、特別の人間である。学ぶということはその人にすべてを委ねられるという前提がなければ、成立しない。耕作科がいいのは、自然というものが厳しく指導してくれるからだ。しかも人間と自然との関係も身体を持って知ることになる。教師以上に、自然が教えてくれる点が素晴らしい。

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